ゆるしの心理学

心理学における「許し(forgiveness)」に関する論文や著作のあらすじとコメントをのっけます。

ゆるしのダークサイド:ゆるすことは攻撃を持続させてしまうのか?

 誰かに傷つけられたにも関わらず、ゆるすのであれば、その後その相手はどのような行動を取ると予測されるのだろうか?

 一つ目の可能性は、相手が罪悪感を覚え、再び傷つけられる確率が低くなるということである。この可能性については、Heider(1958)やBaumeister(Baumeister, Exline, & Sommer, 1998)といった心理学者が言及している。その一方で、ゆるすことでいわば相手が調子にのり、再び傷つけられる確率が高くなるということである。Axelrod(1984)を代表とするゲーム理論をはじめ、多くの心理学者もこの見方を指示している。

 実際のところ、ゆるすことは再被害が生じにくくするものなのか、生じやすくするものなのか。James K. McNultyによる2011年の論文、"The Dark Side of Forgiveness: The Tendency to Forgive Predicts Continued Psychological and Physical Aggressionin Marriage"は、その疑問に答えるヒントを与えてくれるものである。

 

 この論文の中で、McNultyは正反対の二つの心理学的な原理を紹介している。一つは、加害後のゆるしがさらなる加害を防ぐことを説明する互恵性(reciprocity)」の原理である。互恵性の原理とは、相手から何かをされたときに、自分も相手に何かをしてあげたくなるということであり、これに従えば、ゆるすという好意的な行為をされた相手は、自分にも好意的な行為をするはずであると考えることができる。もう一つは、加害後のゆるしはさらなる加害を招くと説明するオペラント条件付けの考え方である。人は良い結果が得られる行動は繰り返し、逆に悪い結果(ないしは結果が得られないこと)を招く行動は減少するというこの考えに従えば、加害によって好ましくない結果が得られない、すなわちゆるすことは繰り返しの加害を招くといえる。

 McNultyはこの二つの原理を並べた上で、婚姻関係において、ゆるしがパートナーからの加害に与える影響について、オペラント条件付けが優先するものであると述べている。互恵性の原理で返報されるのは、加害に関連した行動である必要はないし、また互恵性の原理が生じるのはゆるされて「すぐ」であり、ある程度の期間の後に生じる再被害に与える影響は大きくないであろう。

 こうした仮説の上で、McNultyはカップル双方のゆるしを表明する傾向性と、心理的・身体的攻撃性の関係を、4年間に渡り調査した。その結果、ゆるしを表明する傾向性は初期の心理的・身体的攻撃性と逆相関が見られるものの、ゆるし表明の傾向性が高いと報告した配偶者の心理的・身体的攻撃性の頻度に変化は見られないが、一方でゆるし表明の傾向性が低いと報告した配偶者の心理的・身体的攻撃性の頻度は有意に低下したのである。

 以上から、McNultyは婚姻関係において、ゆるさないことを表明することが、心理的・身体的攻撃性の頻度を減少させる効果があるだろう、と述べるのである。稀に起こるような行動ならともかくも、とりわけ頻繁に起こる行動に対しては、それに安易にゆるしを表明することで、それを持続させてしまう危険性があると、McNultyは警告しているのである。

 

 このMcNultyの論文は、以前から指摘されていた、ゆるしが再被害を生じさせる可能性を増加させる、ということを実際に裏付けた研究であると言える。Lamb(2002)らは、とりわけDVの背後にはゆるしがあるのではないかと論じ、安易にゆるしを促進することの危険性を述べていたのであるが、そのメカニズムに対する一つの説明となるものであろう。そして、たとえゆるしが賞揚されるべき徳だとしても、それは完全に安全で安心な場所が確保されてから、生じるべきと考えることもできるであろう。

 

単著:復讐を超えて(1)

McCullough,  Michael E. (2008). BEYOND REVENGE: The Evolution of the Forgiveness Insrinct. San Francisco; Jossey-Bass. 

 

おおまかな内容

 生物学的遺産から規定されるのは、人間本性は「根本的にけだもの」であり「根本的に尊い」の両方であるということである。チンパンジーの進化的視点から見るなら、オス達はコミュニティの他のオス達に強い正のアタッチメントを発達させてきた。オス達の絆は彼らの縄張りを保持し他の親類たちを守る機能を果たしたが、同時に他のグループのメンバーへの反感を生み出す。チンパンジーは「仲間の心理学(coalitional psychology)」を持つ。人間も同じである。仲間への思いの「善性」と敵への思いの「獣性」は、人間とチンパンジーの両者にとって、許しと復讐という形で本性なのである。多くの人は、復讐を疾病のように考えている。この復讐の「疾病モデル」が精神医学の中で端的に示されるのが、カレン・ホーナイの”The Value of Vindictiveness”というエッセイである。そのモデルは、復讐と精神疾患を結びつけるという面では正しいが、しかし復讐の欲望が人々を狂わせるという点では誤りである。この疾病モデルにおいては、許しは治療となるが、これはよく広まった誤りであるといえる。復讐の欲望は、特定の不幸な人々が陥る疾病ではない。それどころか、それは自然淘汰によって形成された人間本性の普遍的特徴であり、人間という種が進化してきた古代の環境に適応的であるが為に、現在でも存在しているものなのである。これはジョセフ・バトラーやアダム・スミスの見方と同じである。それをここでは、進化論的な枠組みから明らかにする。復讐の能力は、人間の祖先にとって社会的問題を解決し、彼らを生き残らせることを可能にしたのである。進化における選別と伝達の中で、それは私たちの種に普遍的なものとなったのである。現在のレンズからすれば復讐は問題であるが、進化論的な見方からすれば復讐は解決であった。そして復讐への欲望と同じく、許しの能力もまた、自然淘汰によって作られた人間本性の本能的特徴であり、人間という種が進化してきた古代の環境に適応的であるが為に、現在でも存在しているのである。人は許すことで、壊れやすい関係は継続させることを可能にしており、加害が発生する以前よりも関係性がよりよくなり強くなることさえ生じるのである。ホモ・サピエンスは、愛情、信頼、相互的恩恵の絆を通して生き残ってきた協力的な種である。友を許すことは、力強いリソースを発見することである。好ましい関係を維持することは、新しいものをゼロから作り出すことよりも効果的である。人間以外の種でも、対人関係上での加害の後には不安と緊張を経験する。とりわけ近い関係においてでそうである。それらの種では、葛藤後の不安の発生は、個々に互いに利益ある契約を再構築することを促進し、ダメージを受けた、しかし依然として価値ある関係を前に進めるものなのである。近い関係ではない人を許すことは、近い関係の人を許すよりも困難である。しかし、まるで奇跡のように、ある人々はそれをなすことが出来る。異邦人や敵を許すためには、自然淘汰によって形成された、我々の愛する人、友人、近い関係者を許すことを助ける心と同じ心的なメカニズムを活性させる必要があるのである。われわれのコミュニティにより許しを勇気づけるためには、それらのメカニズムを活性化させるように社会的な状況を整えなくてはいけない。われわれは、本性を常に「不自然に」起こすことが出来るのである。われわれの発達した脳が我々自身の状態を観察することを可能にするため、われわれは社会を復讐よりも許しを促進するように整えることが可能にすることができるのである。

 復讐とは、その人自身が害されたという感情に反応し、その傷つきを修復しようとする行為ではなく、即時的な直面化によってそれを止めようとするか、物質的な利益を得ようと、誰かを害そうと試みることである。もし人々が自分のことを現実的に見ようとすれば、いかに許しが難しく、復讐への欲望が表面に上がることが簡単かを認めるであろう。更に言えば、深刻にトラウマ化された出来事について感じることを考えれば、許しはとても困難なものとなる。オランダの学生に害された特定の経験を想起させると、64%の学生が復讐への欲求を認めたという。深刻に傷つけられたのであれば、復讐を試みるという欲求は強く生じることになる。コソボでのエスニック・クレジングへの被害者は強く復讐を希求している。もし社会が安定していれば許しは生じやすいが、それが不安定になればより復讐へと傾く。科学者は人間の攻撃性を、他の人を害したいという欲求に動機付けられた行動だと定義している。長年の間、社会心理学者は人間が見知らぬ人を自発的に傷つけようとすることはまれであると調べてきた。チンパンジーのように、明確な理由がなくとも見知らぬものを傷つけようとするではなく、人間は見知らぬ人を尊敬と寛容、そして協力の精神で理由はなくとも扱うのである。実験室の中において最も攻撃性が表出されるのは、「引き起こされた攻撃性」ないしは自分自身が傷つけられた後の攻撃性である。しかし例え怒りが引き起こされても、すぐに狂戦士となり無実の他者を傷つけ始めることはないのである。結論としては、誰かがあなたを害することを確実にするには、先にその人を害することである。復讐への欲望は、依然として人が殺しあう重要な理由となっている。筆者によれば、おおよそ20%の殺人に復讐は関与している。とりわけそれは、学校で生じる殺人の大きな理由になっているとされる。戦争も同じである。より社会が複雑になれば、戦争の理由もより複雑になるとされるが、しかしそれでも復讐が戦争の中で大きな位置を占めていることは確かである。それはさらに、国際的なテロリズムにおいて鮮明になる。ほとんどの人が、自分自身を寛容で許しに溢れていると見ることを臨んでいるが、しかし復讐の欲求は彼ら自身が被害者であり、疎外され、批判され、敵意に晒されていると感じるときに、表面に浮かび上がってくる。しかしその破壊的な側面だけでなく、それが解決として機能する側面も見なくてはならないであろう。

 復讐への欲求は普遍的なものであり、それは人間が経験する大きな痛みと暴力への非常に重要な動機である。しかし同時に、傷つけられた時に復讐の体制を整えることは、普遍的な人間の特徴なのである。人間が適応してきた古代の環境にあった復讐の機能とはなんであるのか。古代の世界は、少しの才覚、少しの親類、少しの親友が、トラブルが生じた時に助けとなるリソースである。その中で子孫を残す点で、復讐は利するものとして働いてきたのである。進化論的に考える上で、「適応(Adaptation)」は重要な要素である。では、いかに復讐が破壊的であり無意味であるように見えるのに、遺伝的な意味で適応となり得てきたのか。それがもし本当に適応的であるなら、そのデータは適応的な問題に対してそれが解決してきたという、一貫したストーリーが提供されるべきである。許しを適応として概念化するならば、まずは我々の祖先が一体どんな社会的問題に適応しようとしたかを理解しなくてはならない。そこには三つの大きな可能性がある。一つ目は、まず、復讐は二度目の攻撃をためらわす効果がある。われわれはもし誰かに傷つけられたのであれば、それが再び生じることを防がなくてはならない。復讐の本質を、進化論の生物学者は「適合を縮小させる報復的罰」と定義し、動物に広まっているとする。復讐の能力は、攻撃者にその犯罪は割に合わないことを教えるものなのである。報復の恐れは、攻撃性を後退させることができる。攻撃のターゲットが報復の機会を持っていると知らせることは、攻撃が起こることを大幅に減らすことを可能にするのである。二つ目の効果は、まずそもそもの攻撃をためらわせる効果である。我々の祖先は、集団で暮らしており、そのため攻撃的な他者と出会ったならば、それは直ぐに集団的な知識となるものであった。実験室においても、被害者は攻撃者に対して、その攻撃を観察している他者がいるときにより強く反撃する傾向がある。すなわち復讐は、それを観察する他者に自らを攻撃するコストを意識させることになり、彼らからの攻撃を防ぐ効果があるのである。これは人間の「名誉」の意味をまた説明するものである。時に人間は、名誉をかけて殺したり殺されたりする──もし一度名誉が失われば、すぐに近隣者が優位性をとってしまうような社会においてはよりそうである。これは、アメリカの北部と南部の学生の間の差異から明らかにみられることである。三つ目の効果は、復讐がおそらくは人間の恊働を促進してきたということである。人間の社会は、多くの協力から成り立っている。しかしその協力にコストなしに益を得ようとするのが、「フリーライダー」の問題である。この問題を解決する手法の一つが、「利他的な罰」である。それは違反者にあるコストを背負わせることによる罰則である。この利他的な罰を促進する心理学的メカニズムが、フリーライダーが人々を怒らせることであり、それへの罰によって人々の気分が晴れるのである。継続的なフリーライダーへの罰は、大きなスケールでのグループの協力を促進する。罰の能力がなくては、大きなスケールでのグループの協力は生まれない。しかしながら、フリーライダーへの懲罰の能力によって、それは進化論的に問題のないものとなるのである。

 

コメント

社会心理学社でゆるし研究をリードしてきたマッカローによる著作。進化心理学の視点から復讐とゆるしの関係が論じられていきます。続きます。

 

URL(google books)

https://books.google.co.jp/books?id=daomTGYZuW4C&redir_esc=y

 

 

論文:カウンセリングの中でのゆるし

Affinito, M. G. (2002). Forgiveness in Counseling: Caution, Definition, and Application. In S. Lamb & J. G. Murphy(Ed.), Before Forgiving: Cautionary Views of Forgiveness in Psychotherapy. New York: Oxford University Press, pp.88-111.

 

大まかな内容

 性急な許しは、正義を支える基盤を喪失してしまう可能性がある。カウンセリングに許しを適用するにおいて、正義の分析をすることは必須である。「カウンセリングの中での許し(Forgiveness in Counseling)」と「許しのカウンセリング(Forgiveness Counseling)」は異なるものである。前者はクライアントが許しを持ち込むのであるが、後者ではそれがポリシーとなっていしまっている(エンライトのものは後者であり、それは許さないことを選択することは本質的に排除されていると言える)。

 許しとカウンセリングに関しては、三つのことが疑問として提示される。①許しは常に望まれるものか?②カウンセラーはカウンセリングの中に許しを呼び込む権力を持つか?③許しは教えられるテクニックなのか?このいずれの質問に対しても、答えはノーである。同時に、カウンセラーは許しを勧めることの危険性を認識しなくてはならない。虐待や物質依存といった分野においては、許しが非常に重篤な結果を生み出してしまうことがある。

 多くの許しの定義の中には、罪悪感や正義に関するものはあまり言及されていない。表面的には、許しのカウンセリングは被害者の不正義について認識する必要があると述べている。エンライトも「許しとは、加害者の不正義において、その加害者を共感と愛と共に見ることによって、否定的判断と効果をやめることである」と述べている(1991)。しかしながら、エンライトが述べる「加害者を共感と愛とともに見る」ということは非常に制約的で、結果を得ることは困難なものではないであろうか。

 そこで筆者は実践的な観点から「許しとは、知覚した加害者の不正義への個人的な罰への追及をやめ、決断という行為において、それに続く感情的な解放を経験することである」といえる。エンライトと異なり,筆者は感情的な解放を二次的なものとしている。また、共感や愛など肯定的感情も必要としていない。筆者の中心にあるのは、加害の後の一般的な反応である、不正義に対する怒りや罰したいという欲求である。許しとは、不正義への反応のプロセスなのである。もしカウンセラーが許しの決断の助けとなりたいのであれば、不正義について理解しなくてはならない。そして正義についても理解する必要がある。

 正義とは、以下の三種類に分けられる。(1)報復的正義、(2)修復的正義、(3)全般的正義である。まず報復的正義においては、その根底には「ゲット・イーブン」というものがある。それは破壊的にもなるが、もしそれが新しいバランスを作りうるなら効果的なものとなる。効果的な罰というものは、以下の三つの基準を満たすものである。①罰の基準は明確なものである。②罰の終わりが明確に決められている。③未来の罰を避ける必要条件が定義されたものである。そして修復的正義は、ムーブメントとして広く受け入れられてきた。アメリカ(日本でも)では、司法のシステムにおいて被害者は置き去りにされてきた。修復的正義はそれに被害者を参加させ、コントロール感と公正感を取り戻すことを目的とするものである全般的正義とは、公正と公平をベースとして、文化差を超えた正義として言及されるものである。

 裁きと罪悪感は、正義の一部分である。許しの理論家は非判断性の信奉者でないにも関わらず、それらは20世紀のヒューマニズム相対主義に取り込まれてしまった。それは、非常に簡便化されたキリスト教的な教条でもある。裁きと罪悪感は、我々の宗教性に依存している。宗教は許しの最もこのましい形も、望まない形もそれぞれ促進する可能性がある。幾人かは、簡略化された聖書のメッセージによって、性急な許しが促進されてしまっていると語る。ファリサイ人(ルカ七章36-47)に言及して、パウルティリッヒは後悔は許しを作り出さないが、許しは後悔を作り出すと述べている。ティリッヒによれば、許しは「にもかかわらず」の性格を持つとされる。ティリッヒは我々はみな誤りを犯すものであり、その不完全性と闘うものは、それを見ないものよりも容易く許しという解決への決断ができるであろうと述べている。被害者にいつまでも怒りを持ち続けることを要求することは、もし攻撃者が許しを請い求めなくてはいつまでも奴隷状態におかれ、いつまでも続く痛みに苦しむという現実的な問題がある。その他にも、「目には目を、歯には歯を」といった言葉も文脈が無視され多くの誤解を招いてしまっている。「旧約は怒りの神であり、新約は許しの神である」というのは、大きな誤りである。カウンセリングの中の許しを効果的に用いたいのであれば、セラピストはクライエントの宗教的背景を十分に理解している必要がある。

 許しが正義と慈悲のバランスで示されるものであれば、慈悲は正義のコンテキストの中で理解される必要がある。性急な慈悲は、不正義が提議する問題を回避するものである。

 そして許しの問題は、長い間自己の快を優先するか、コミュニティにおける正義の問題を優先するのかで、左右されてきた。今は、あまりにも多くの人が個人の快の問題に還元してしまっていたと言える。エンライトとフィッツギボンズは、実用主義に対して警告している。しかし、カウンセリングのプロセスと報酬と、広い社会における実用的かつ道徳的な影響というものは、不可分なものではないだろうか。セラピーの終了を自己中心的なクライエントの快というものをターゲットにしているだけでは、許しはセラピーの中だけで求められるものとなってしまう(それはより広いコンテキストから解離してしまう?)。

 筆者が提示する「プラグマッティック・モデル」とは以下のようなものである。

①声を与えること:不正義を認めること

 傷つきや怒りに対して声を与えることは、不正義、それに付随する感情、彼らの経験におけるクライエントの正しさを補償し知覚することを勇気づけるものであり、重要な最初の一歩である。南アフリカでの経験から、Krog(2000)は傷つきや加害、その感情を自分の言葉で語ることは「それに対するコントロールを持ち──あなたの望むようにそれを動かせる」という点で重要だと述べるのである。ここで重要なセラピストの役割は、怒りや憤怒をもつ権利を保証することであり、誰か別のひとの立場に立ったり、もしくは性急な行動に駆り立てるものであってはならない。クライエントが空想的な怒りをぶつける余地を残していなくてはならない。このフェーズの目的は、クライエントがより認知的で決断できる視点を持つことが出来るまで、強迫的な怒りや憤怒を減らすことにある。

②データを集めること

 これは冷酷に聞こえるかもしれないが、決断を下すためには冷静にデータを集めなくてはならない。感情が十分に落ち着いてから、ここでは攻撃そのもの、それが破壊した道徳的コード、それがクライエントのみならずより大きなコミュニティに与えた影響というものを分析することが含まれいてる。これはまた、痛みに満ちた経験でもある──ここでは、クライエントが自らの責任を問われることすらあるからである。これはクライエントを批判するのではなく、それに力を与えるためになされるものであることが原則となる。そしてまた、ここでは攻撃者のモチベーションを、それを罰するためではなく、コントロール可能なサイズまで下げなくてはならない。しばしば、被害者は人間が間違えうる存在であることを忘れるならば、加害者を非現実的に巨大な悪としてしまう。攻撃者を再人間化することは、それをコントロール可能とするためである。これが共感を促進するものであってもかまわない。

③決断的行為をすること

 定義の部分で述べられた通り、加害に対していかに反応するかということは、許しのカウンセリングの目標となるものであり、それは選択された行為の適応によってのみ超えられる。このフレーズで重要なのは、なんらかのセルフ・ヘルプの書籍やアドバイザーを一切避けることである(それは自らの決断においてなされなくてはならない)。そして決断をする前に、そのコストと利益を測定することが重要となる。否定的結末を予測することも重要である。

④a罰することを選ぶこと

 熟考した罰においては、クライエントはその権力や権威を持っているかを考えることが重要である。有効な罰を与えるにはいくつかのガイドラインがある(省略)。これらの基準は、明確に復讐心からの罰と区別するものとして重要になる。

④b罰を与えることを選ばない:慈悲的なオプション

 ここにもガイドラインが存在する。1)それは明確な期待される結果を持たなくてはならない2)それはそのプランに許す人の潜在的コントロールが持ち込まれたものでなくてはならない3)その行為のもたらす効果の基準が定義されていなくてはならない4)許す人は、その行為のもたらす対価を払う準備をしていなくてはならない5)熟考の末に、それが最良の結果をもたらすものであると示されなくてはならない、ということである。簡単にこの選択はなすべきではない。この選択は個人的なものであり、全てのセラピーにおいてクライエントが何を選ぶかを予想することはできない。

 行為のあとに感情的な解放がどれくらいで訪れるかに関しては、明確な答えはない。しかしサポートグループや支持的な友人の存在は、その時間を短く感じさせるものとなるのであろう。許しは多くのポジティブな効果をもたらすものである。しかし許しは、加害者を正義のために罰する時には、却下されなくてはならない。報復的正義は、もしそれが永続的な復讐となってしまうのであれば、破壊的なものとして働く。しかし、社会的正義のためには許しが当てはまらないケースも存在するであろう。

 

コメント

 「ゆるしのカウンセリング」ではなく「カウンセリングの中でのゆるし」について扱った論文。(欧米の)研究結果(Denton&Martin, 1998;Konstam, et al., 2002 )からも、ゆるしのカウンセリングでなくても、カウンセリングの中にゆるしが持ち込まれることは多々あるそうなので、それをいかに扱うかというガイドラインになるようなモデルではないでしょうか。ゆるしを手放しでいいものとして扱うことは、ステレオタイプ的な判断に陥ってしまいますよ、と。ところでAffinitoさんはセルフ・ヘルプ本に対して文句をここでは言ってますが、自分でもゆるしのワークブックを出してるんですよね(

When to Forgive: A Personal Guide: Mona Gustafson Affinito: 9781572241756: Amazon.com: Books)未読ですが、どうなんでしょう。

 

 URL(Google Book)

 https://books.google.co.jp/books/about/Before_Forgiving_Cautionary_Views_of_For.html?id=DeaEdNSSIYoC&redir_esc=y

 

 

論文:最良のゆるし(1)

Griawold, Charles L. (2007). Forgiveness: A Philosophical Exploration. London; Cambridge University Press. Chapter2 "Forgiveness at its best"より

 

おおまかな内容

1:ゆるし、報復、憤り
 現代のパラダイムにおけるゆるしとは、哲学的にはどのように規定されるだろうか。バトラーはゆるしとは報復を捨て去ること(forswearing forgiveness)を求めているといったが、これは正しい。ゆるしの一部には報復を否定することは、究極的には正しいことであるが、しかしこれは自明のものではない。ゆるしは、加害や加害者に対するある道徳的な反応である。バトラーがいうように、憤り(resentment)とは、故意に行われた加害への嫌悪の一部である。もし憤りがなければ、そこにはゆるしも存在しない。だが、ゆるしとは「単に」憤りをやめるというものではなく、むしろ憤りを中和(moderationg)するものである。憤りをやめるということは、加害にまつわる出来事のすべての「すべての」否定的な感情をなくすということではない。しかしゆるしは、憤りに埋め込まれ続いているさげすみや軽蔑などの感情を乗り越えるものである。この点において、ゆるしは得なのである。
 ゆるしは、憤りをやめることを求めているのだろうか。バトラーの理論だと、第三者から安定して受け入れられ、抑制されない感情よりも低いレベルに憤りを押し下げ、同情される適切なレベルに憤りが中和されることを含むことである。バトラーによれば、加害に適当以上のものでなかれば、憤りを抱いていたとしても「XはYをゆるす」と言えるのである。憤りは準認知的な感情である。そのためゆるしは加害に適切な適当に中和された憤りと、憤りを手放した心のフレームに向かってコミットする人格を必要とするのである。ゆるしは完了形よりも、現在形で語られるものである。このアプローチは、ゆるしを完全に達成することが困難であると認めるものであるが、「全か無か」の事柄に押し込めないことを勇気付けるものである。バトラー主義者であることは、復讐をやめて、憤りを適切なレベルに中和することをゆるしとするという誘惑がある。もし、考えられるすべてのことに憤りが適切なものであれば、実際はゆるしは不可能であるか未熟なものとなってしまうだろう。ゆるしは適切な憤りを取り除こうとするものではない。それは、憤りがもはや適切ではないという認知のあとに続くものなのである。
 
2:憤りと自尊心
 ギリシアやローマの完全主義者たちは、ゆるしを徳としてみなしていなかった。憤りは、他者に対するわれわれの脆弱性のサインである。Jean Hamptonにとって、憤りは品が傷つけられたことに対する反応である。加害行為は、考えるよりも低い地位であることを明らかにする。それは自己評価が下がってしまうことである。憤りは弱さに刃向かうことである。自身のランクや価値についての高い信念が、憤りを乗り越えることになるのである。そのため「悪意ある嫌悪」、憤りと自己自身の低い程度に続く、自己嫌悪の戦略が重要である。これはニーチェの「ルサンチマン」に似た性格のものである。憤りは、自己防衛の機能を持っている。聖人ではないわれわれにとって、二次的な加害の可能性、他者からどう見られているかということは最大問題なのである。またより重要なのは、憤りの持つ非人格的側面である。それは、そのように誰かを扱うことは間違っているということである。憤りは、加害の持つ間違いや不公平さに抗議するものである。それは、スミス的な道徳的観点に立つものである。言い換えるのであれば、憤りは強力な憤慨(indignation)の要素を構成要素としてもっているのである。憤りは正しい尊重を自身に要求するものであり、加害者にそれを求めているという意味で、それは加害者をも尊重する。そしてゆるしも同じように、自身と加害者への尊重を要請するものである。そのため、ゆるしは容赦(condonation)や免除(excuse)といった、徳ではないものに堕ちてはならないのである。ある特定の状況や規範(つまり自己と加害者の尊重)において、ゆるしは打ち立てられるのである。
 
3:ゆるされること:やり方を変え、悔恨し、後悔する
 二者関係のパラダイム的ゆるしにおいて、相互依存する加害者と被害者はともに変化しなくてはならないが、それは非対称的である。まず、それは加害者の変化からはじめられる。加害者がある特定の個人を傷つけ、被害者に加害者がゆるしを請い、もしそれが受け入れられば、それは加害者に授けられる。被害者の憤りは加害者の行動によって引き起こされるが、しかし正しくは、われわれは行動ではなく人格をゆるすのである。
 ゆるしの前提となるのは、加害者も被害者もぞれぞれ道徳的存在であるということである。つまり、お互いがそれぞれの相手に相互依存する力を持っているのである。加害者は被害者に依存してゆるされるのであり、被害者は加害者に依存してゆるされる。この相互依存性がゆるしのロジックの一部であり、それがゆるしを徳としているのである。
 被害者は憤り、すくなくとも憤りを続けることが適切であることを諦めるために、以下の理由が必要である。1)まず加害者が、加害を続けることをもはや望んでいないということを示す行動をすることである。そのためには、まず加害者が責任のある主体であることを認めなくてはならない。2)次に、加害者がその行動そのものが否定すべきあるものであるとし、再びそれをなすことをも否定しなくてはならない。この否定によって、加害者が単に加害をなしたのと「同じ人」ではないことを示すのである。3)加害者は被害者に悔恨を経験し、表明しなくてはならない。これは単に悔恨を感じればいいというわけではなく、コミュニケーションをとらなくてはならないということである。4)加害者はもはや傷つけることはない人間になることにコミットしなくてはならず、そのコミットは言葉と同じように行為によって示されなくてはならない。ゆるしは単にレトリカルな行動の変化でも、単なる感情の変化でもない。これらの悔恨を構成する4つのステップは、ゆるしのアピールに必須の要素である。ゆるしが容赦ではないのが、それが加害者が過去の責任のすべてを負うからである。5)加害者は、被害者の視点から、被害によってあたえたダメージを理解していることを示さなくてはならない。それは被害者の言葉を聞き、同情(compassion)を示すことである。加害者は、共感のエクササイズをすることが求められる。6)加害者の後悔の表明は、いかに過ちを犯したか、いかに間違いが加害者の人格のすべてを表していないか、加害者が肯定に値するか、そのナラティブを説明するものである。被害者は、この人は誰か、どのように私を傷つけたか、ゆるしに値すのか、ということを求めている。この要求に応えることが必要となるのである。
 これらが一緒になることで、加害者がゆるされることが請け負われるのである。なぜこの六つのステップを踏まなくてはならないのか。その動機付けとなるのが、罪悪感である。罪悪感は、良心によって作られる動機づけと理解されうる。これはわれわれの社会的・相互的存在という本質から強烈に迫るものである。この罪悪感は、道徳的孤独から解放するようなゆるしによって軽減されるものである。スミス的な共感の理論が、ここには当てはまるものである。
 
コメント
心理学といいながら哲学。その中の「最良のゆるし」とは何かというのを扱った章の、最初の四分の一ぐらいです。バトラーのゆるし理論の解釈からはじまり、加害者のゆるしのコミットを扱った部分まで。続きます。
 
URL(google books)

books.google.co.jp

 

なにか質問がありましたらokazukinekoあっとgmail.comまで

 
 
 
 
 
 

論文:被害者の役割、グラッジ理論、許しの二つのディメンション(2)

Baumeister, R. F., Exline, J. J., & Sommer, K. L. (1998). The Victim Role, Grudge Theory, and Two Dimensions of Forgiveness. In E. L. Worthington, Jr.(Ed.), Dimensions of Forgiveness: Psychological Research & Theological Forgiveness. Philadelphia: Templeton Foundation Press, pp.79-104.

 

おおまかな内容

 許しは多くの利益をもたらすものであるとされるが、にもかかわらず許しが示されないことがあるのはなぜであろうか。それを説明するのが、グラッジ理論である。それでは、許しではなく恨みを抱き続けることで得られるメリットとはなんであろうか。まず明らかなのは、実際的ないし物質的な利益を加害者から得られるということである。許しによってその負債を解消してしまっては得られるものはなくなってしまう。Tavris(1989)の研究は、いかに対人関係上の罪と、恨みを抱き続けることが実際の利益をもたらすかを現している。性的な不正を行った夫が、妻の家事を負担する結果になったというものである。もし妻がすぐに夫を許すのであれば、その利益は得られなかったであろう。そして許さないことは物質的な利益だけではない。それは罪悪感を引き出すものであり、そして道徳的優位性を維持させるものである。

 そして重要になるのが、許しはおそらく、加害が再び生じる可能性を増加させるものであるということである。理想的な許しと和解の状態は、関係性が完全に元通りになることであるが、しかしそれはまた加害が起きうるということを意味するものである。許しを表明しないことで、被害者が影響を持ち続けて、再びの加害が生じないように望むのである。例えば誕生日をボーイフレンドが忘れたとして、そのことを許さないままでいたならば、翌年はきっとそのことを覚えているであろう。そのため、もし加害者が真摯に謝罪し、責任を認め、再び加害を繰り返さないことを誓うのであれば、許しは生じやすくなるであろう。しかしその一方で、そのコストを嫌い責任を認めず謝罪を拒否する加害者もいるだろう。その時は許しが生じることは困難となる。実際に、加害者の態度というものは最も大きな許しの生起の要因であり、また謝罪はそれだけで許しを引き出す大きな要因となるのである(Exlienら,1997)。

 疑い用無く、許しの一つの阻害要因となるのが、加害による苦しみや他の影響の継続である。子どもを殺された両親は、喪失の影響をいつまでも受け続ける。しかし原則的には、影響の継続性は許しの決定要因にはならないといえる。許そうが許さなかろうが、加害の影響は続いているのである。セラピーによって過去の視点から未来の関係へと物事を移そうとしても、加害の影響の継続は未来における新たな関係を築くことを阻害するものとなるであろうし、過去を葬ることを困難にさせる。影響の継続性が許しの決定要因とならないのであれば、許すことや忘れることは加害がなにも起こらなかったと装うことでもある。そのため、加害の最大化や歪曲は、許しを同定する助けとなるべきである。加害の結果が継続しているときに許すことは、おそらく全く難しいものであるし、おそらくそれは幻影的なものであろう。加害は被害者の加害者への視点を根本的に覆すものである。それは以前の関係性に戻ることを不可能にするものである。たとえ加害がわずかなものであったとしても、信頼は戻ってこない。もし内的な許しが生じたとしても、和解は可能ではないかもしれないのである。

 多くの加害は、被害者の自尊心やプライドに関わる。そのように感じる被害者が許すということは、個人的にも対人関係上でも、面目や低い自己評価を受け入れるということである。他者によって自分がどのように評価しているかについての関心は、対人関係上での許しの生起において重要なものである。「静かな許し」は、公的な表れへの関心を現すものである。個人的には許していたとしても、自らの面目を保つためにそれを表明することを止めるのである。プライドや面目を失うことは、和解の最初のステップを歩むことの拒否であり、許しの表明を控えることにつながるものである。この議論の延長線上にあるのは、許しが時に弱さを現すものとして捉えられてしまうということである。許しの表明を拒むことは、強さのイメージの保持を望むからでありそれが必要だからである。恨みを抱くことは、そのためプライドを保つことに繋がるのである。これは報復への欲求と同様であり、そのために恨みを抱き続けるのである。報復とプライドは異なる概念ではあるが、それは時に繋がったものとして示される(&Baumeister, 1997)。人々はプライドを喪失したときに、対人関係上での暴力や悪に駆り立てられるのである。許しの理論は、プライドとリベンジの関係、プライドが許しの生起を阻むことについて無視をしてはならない。明らかに、面目を失ったあとの報復は対人関係上の行為であり、それは対人関係上の許しの阻害となるものであろう。

 最後の恨みを保持する理由としてあげられるのは、正義の原則やスタンダードへの一貫性に関わるものである。道徳原則において受け入れられないために、個体内や対人関係上での許しは阻まれるのである。人々は一定の許しのパターンを持つとしているが、許しは「容赦すること(condoning)」とは異なるものであるといわれている。しかしその境目は不確かであり、重なり合ったものである。もし被害者がうけた加害を認めなければ、加害者は被害者の許しの行為を容赦されたと解釈し、結果として加害者は再び同じような加害にコミットしてしまうことになる。ここで重要なのは、人々は通常の許しの表明を容赦されたものとして解釈してしまう可能性があるということである。もし加害者が許されることを見越して加害に及ぶのであれば、それらの加害を非難する原則は力を失ってしまうことだろう。ここに、許しの表明のリスクがある。そこで、正義の高いスタンダードでの一貫性がそのような行為が許されるべきではないとするのである。そのようなわけで、虐殺、拷問、虐待や、婚外での性交渉やイカサマなどで、人々は恨みを抱くことになるである。このような感情は個人的な道徳的原則に依存したものである。被害者は、彼らが加害を非難する原則を維持したいがために、許しを表明することを止めるのである。もし加害者が加害の間違いを認め、同じ道徳的原則に同意するのであれば、被害者の道徳的重荷は軽減され、許しを始めることがより簡単なことになるであろう。

 それでは、恨みを抱き続けることでのコストとはなんであろうか。個体内において恨みを抱き続けることは、すなわち被害者の役割が続くということである。まず主観的なコストとしては、否定的影響が続くということである。少なくとも個体内のレベルでは、恨みを抱き続けることは苦しみとストレスが続くことになる。そして被害者の役割に留まり続けることは、被害者の言葉が含む苦しみ、弱く、ストレスに晒されているということを、アイデンティティの一部を取り込むことでもある。「幸せな被害者」であるということはない。恨みを抱いている時にその対象とあうのであれば、そこには否定的な感情を持つ義務が生じる。なにもないとしても、怒りを継続することになり、それらは否定的感情の不健康への影響を与え続けることを意味する。許しを拒むことの感情的なコストは、許しをセラピーにおいて促進する中心的な理由となるであろう。例えば死者などへの恨みを抱き続けることは、否定的な感情のサイクルに入ってしまい、得られるものはない。こうした状況においては、個人的な許しは被害者の解放となるものであろう。そしてそうした感情的なマイナスを超えて、被害者の役割であることは受動的で消極的な態度となることにつながり、加害とは関係がない領域においても、成功や幸福のチャンスを逃してしまうのである。被害者の役割であることは、さまざまな面に悪影響をもたらすことが研究から示されている。

 そしてもう一つは、対人関係での恨みを抱き続けるコストについてである。まずそれはなにより、人間関係にダメージを与えるものである。恨みは関係性への対立物であり、楽観的な親密さや肯定的な社会的つながりと相反するものである。そのため、許しは何より対人関係を癒すものとなるのである。許しを拒むことは、本質的には反社会的なものである。恨みを抱き続けることは、時に関係性を終わらせるものとなるのである。

 

コメント

 バウマイスターとエクスラインのグラッジ理論に関する論文の後半。ゆるしのネガティブな側面に関して、かなり鋭く分析しています。のちに謝罪の効果についてこの二人はこれまた重要な論文を書いていますが、このあたりの議論から出てきたものなのかなー、と。

 

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論文:被害者の役割、グラッジ理論、許しの二つのディメンション(1)

Baumeister, R. F., Exline, J. J., & Sommer, K. L. (1998). The Victim Role, Grudge Theory, and Two Dimensions of Forgiveness. In E. L. Worthington, Jr.(Ed.), Dimensions of Forgiveness: Psychological Research & Theological Forgiveness. Philadelphia: Templeton Foundation Press, pp.79-104.

 

おおまかな内容

許しの生起は、対人関係上のものと個体的なものに分けられる。前者は主に関係性を修復するものであり、後者は主に心理的な負担を軽くするものとして考えられる。そのため、許しは二つの次元に分けて考えることができる。まずは(1)内的で、被害者の感情の状態に関わる個体内の次元におけるものであり、(2)進行中の関係において、許しが生じたり失敗したりすることに関わる対人関係上の次元のものである。

許しが加害に対していかに反応するかに依存している以上、許しの理論は両者の次元において被害者の役割が保持するコストと利益に対して関心を払わなくてはならない。許しの反対を恨み(grudge)を保持することと考えるのであれば、恨みを保持することの明示ないし潜在的利益について分析しなくてはならないであろう。「グラッジ理論(the grudge theory)」と許しの理論は、鏡をはさみ表裏一体なのである。もし加害が生じなければ、許しは必要ないであろう。許しの理論は悪の理論の延長線上にある。

許しとは、被害者が自らを被害者の役割であることを良しとせず、通常に戻ることを選択することである。その反対として、恨みを抱き続けることを選択したのであれば、被害者はその役割に留まることになる。そして被害者だけでなく、加害者もその加害に対して反応する──あるものは許しを請うだろうし、あるものは被害が発生したことすら拒むであろう。加害者の反応によって、許しは大きく左右されるものである。また加害者が罪悪感を感じることもある──罪悪感は、ドイツ語で借り(debt)と同じ言葉である。この罪悪感と借りの関係は、言葉の表面上の違いを超えて重要なものである。すなわち、許しは借りの解消なのである。対人関係上においては、加害は被害者に対して加害者が借りを作ることと理解されるのである。借金のアナロジーから理解されるように、借りの解消として許しを考えるのであれば、そこにはコストが発生するのである。これが、許しの理論に益するような「グラッジ・セオリー」である。

また、近年の研究から、被害者と加害者は同じイベントを経験していたとしても、ずいぶんと異なる経験をしていることが指摘されている。被害者は加害を増大させ認識させ、加害者は加害自体や自己の認識を矮小化して認識させる。このことが、許しの問題において複雑な問題となる。バウマイスターの「マグニチュード・ギャップ」の理論が示すのは、被害者が失うものは加害者が得るものよりも多いという一般的なパターンである。これが負債の解消を困難なものとする、すなわち両者が納得する形で補償はされることはないのである。近年の研究においても、加害者と被害者が共に事実を都合のいいように改変していることが明らかになっている(映画『羅生門』のように)。

許しは一方では認知に基づいた感情的態度であり個体内のものであるとされる。感情的次元における許しはおそらく、認知的過程を中和させ、加害をそれほど悪いものではないとリフレームングしたり、加害者の視点を理解させるものであると考えられる。一方で対人関係上で生じる許しは、報復を探るのではなく、加害の前の状態に徐々に関係性を戻すようなことであると考えられる。これはまた、加害者が罪悪感を抱き続けていたり行動を変化させることを必ずしも必要としないということも意味している。他の社会的行動と同じく、許しは特定の状況において生じるものであり、他者によって公的に目撃され得るものである。

許しを二つの次元から考えたとき、その組み合わせから以下のような四つのシェルからなるマトリックスを描くことが出来る。

(1)「空虚な許し(Hollow Forgiveness)」:これは個体内での状態の変化を抜きにして、対人関係上での行動が示される許しである。ここでは加害者は許しの表明を行うものの、実際には個人的な許しの感情は生じていない。憤りを抱きつつも、「あなたを許すわ」と述べるような様な状態である。エンライトたちのグループがこれは初期の許しの状態であるとしている。マグニチュード・ギャップの視点から述べれば、被害者にとって「あなたを許す」ということは許しの始まりでしかないのに、加害者にとってはそれは終わりのように感じることである。関係性は元に戻るものの、被害者の中に憤りは存在し続けている。さらにやっかいなことは、被害者はその感情を抑圧してしまうということである。許しの表明によって負債を放棄し、道徳的な優位性を失ってしまったため、そうした負の感情を抱くことは正当性を持たなくなってしまうのである。皮肉なことに、そこでは加害によるコストが再び運び込まれてしまうのである。もし許しを本質的に個体内のものであると解するのであれば、このタイプの許しは「偽の許し(pseudoforgiveness)」であるし、本当の許しではないだろう。とりわけ、これは被害者にとって不利なものである。そのため筆者らはこのタイプの許しを「空虚な許し」ないしは「外向けの許し(outer forgiveness)」と名付けているのである。このタイプの許しは、理論的にも実践的にも二つの次元の差異を強調することになる。一般的に、個体内での許しは二つのステップ、つまり許すことを始めて、次に怒りや憤りを手放すという手順を踏む。しかしながら、対人関係上での許しはそうした二つのステップを踏むとは考えられていない。この誤解を解く手段としては「私は貴方を許そうとし始めるでしょう」などと言うことがあるだろう。

(2)「静かな許し(Silent Forgiveness)」:二つ目の組み合わせは、その反対で対人関係上での許しを抜きにした、個体内での許しである。このケースでは、被害者は加害者に対する怒りや敵意を消し去っているにも関わらず、それを表現することを止めているのである。そのため被害者には、加害者に対して謝罪や補償をすることを負わせたままである。静かな許しは、実践的には勧められるものである。グラッジ・セオリーにおいては、これは被害者に有利な戦略である。許しのアドバンテージを利用し、ディスアドバンテージを避けているためである。そしてある状況においても、再びの加害を本当に怖れるあまりに、許しの表明に慎重になっている場合もある。

(3)「全体的な許し(total forgiveness)」:対人関係上でも個体内でも許しが生じているのであれば、それは「全体的な許し」となる。

(4)「許さない(unforgiveness)」:そして対人関係上でも個体内でも許しを示していないのであれば、それは許していない状態であるし、「全体的な恨み(total grudge)」の状態であると言えるだろう。

 

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社会心理学者であるバウマイスターとエクスラインによる「グラッジ理論」が示された重要な論文の前半部。ゆるしを内的なものと外的なもの、二つの次元に分け「空虚なゆるし」と「静かなゆるし」という二つを提示している。「空虚なゆるし」の危険性について論じた部分は、かなりの説得力。臨床的には、空虚なゆるしを見抜くことが重要になるのではないかと。戦略的にも「静かなゆるし」というのは推奨されるてもいいんじゃないかなと思うけど、あんまりされてないですね。

 

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論文:ゆるすこととは贈り物である

Morimoto, A. (2009). Forgiving is Fore-giving: Reaching out for Peace in Interpersonal Relations. The Japanese Journal of American Studies, 20, 193-210.

 

おおまかな内容

 もし平和がその名に値するのであれば、それはカントのいう「恒久平和」でなくてはならない。しかしそれは人類においては、エデンの園でしか実現されていないものであり、平和とはその欠如において認識されるものである。そこで筆者は、平和の欠如から話を始めている。そこで用いるのは、現代アメリカにおける二つの例である。

KKKにより殺害された一人の黒人少年の母親のストーリィ

②強盗に加担してしまい、23年間の逃亡の末名乗り出た一人の女性のストーリィ

 現在、心理学者からは「未熟な許し」の効果を指摘する声があがっている。しかし、「成熟した許し」とは一体なんであろうか。両者のストーリィにおいて謝罪と許しは公的に示されたが、共に多くの議論点を含んでいる。特に後者においては「過去の傷つきに留まることを望まないが、許しを与えることを拒む」という女性が登場する。これは、許しが「贈り物(gift)」である性格を示すとし、筆者はそのポイントとして以下の三つを挙げている。

1)許しとは、まず何よりも、被害者自身の言葉とタイミングで行われるものである。誰も許しを強要することはできない。ハンナ・アーレントの「彼らが罰することができないものを、人は許すことができない」ということである。もし与えることが与えるものの意志によるのであれば、それは正義の充足によるものではない。正義は時に許しを要求するが、それは正義に十分に値するときである。結局、許しは正義の侵害なのである。許しは定められた法律の侵害であり、それはイエスの降臨において始めて徳としてみられたのである。正義は与えるものと貰うものが同じであることを要求される。しかし許しとは、既に与え失ってしまった人が、さらに相手に与えるものなのである。始めに与えることは意志に反して行われるが、二度目に与えることは意志によって行われる。許しとは行き過ぎた与えることなのである。二つの物語の加害者は、許しを願い出る権利がないことを自覚していた。真摯な努力によって許しを乞い願うことはできるが、しかし同時にその努力は無駄になることを知らなくてはならない。許しが与えることである必要がもう一つのリアルは、それは被害者が加害の後に自らの「コントロールの感覚」を取り戻すシンボルとなるからである。許すこと、もしくはそれを申し出ないことの決断は、コントロールを取り戻す重要な経験となる。宗教やカウンセリングなど他の理由で許しを強要することは、その重要な経験を喪失させ、再被害化することにさえなるのである。

2)第二に、許しとは被害者の誠実な告白、後悔、謝罪を受け入れることである。しかし、その謝罪が真実なものであるといかに分かるのか。ある心理学者は、それが「他者志向」であるか否かによって確かめられるとする。告白は被害者だけでなく、加害者のものでもある。謝罪は許しを受けるために提示されるが、しかしそれは許しという贈り物を保証するものではない。謝罪はときに、それが遅れて十分でなくとも、「倫理的な感情の力」を示し、加害者をコミュニティに修復させるようなものとなるのである。しかしここで注意しなくてはならないのは、許しを加害者の謝罪の有無に依存させてしまうことは、被害者を再び加害者に依存させることで、「二度目の攻撃」となってしまうのである。しかし、許しはそうした加害者の告白が先行することに縛られないものである。許しは十分な保証があってなされるものではない。それはポイントではないのである。

3)最後のポイントは、許しとは許す人の中で既に打ち立てられた現実に基礎を持つということである。もし許しが贈り物であるなら、それはその人の中で既に準備がなされていなくてはならない。許しは、その人自身のペースとタイミングで徐々に成熟されなくてはならない。許しを請うことは、それ自体が許しを作り上げるのではなく、それは許しが表明されるのに必要なものなのである。許し(の交換)は、平和条約に例えられる。それは平和をもたらすために行うのでなく、平和な状態において結ばれるのである。

 

コメント

 現代のアメリカにおける二つの事件から、ゆるしの本質が贈り物(gift)であると示した論文。筆者は神学者ですが、ゆるしについて非常に重要な議論が展開されています。これに当てはまらない反証はあるのでしょうけども。「現実を追認するものとしてのゆるし」という概念は、現実を創造する神には罪人をゆるすことが不可能であるという神学的思惟がその背後にあるのではないかなと邪推。しかし、タイトルはなんて訳せばいいんですかね、、、

 

URL

http://sv121.wadax.ne.jp/~jaas-gr-jp/jjas/PDF/2009/11_193-210.pdf

 

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