ゆるしの心理学

心理学における「許し(forgiveness)」に関する論文や著作のあらすじとコメントをのっけます。

論文:カウンセリングの中でのゆるし

Affinito, M. G. (2002). Forgiveness in Counseling: Caution, Definition, and Application. In S. Lamb & J. G. Murphy(Ed.), Before Forgiving: Cautionary Views of Forgiveness in Psychotherapy. New York: Oxford University Press, pp.88-111.

 

大まかな内容

 性急な許しは、正義を支える基盤を喪失してしまう可能性がある。カウンセリングに許しを適用するにおいて、正義の分析をすることは必須である。「カウンセリングの中での許し(Forgiveness in Counseling)」と「許しのカウンセリング(Forgiveness Counseling)」は異なるものである。前者はクライアントが許しを持ち込むのであるが、後者ではそれがポリシーとなっていしまっている(エンライトのものは後者であり、それは許さないことを選択することは本質的に排除されていると言える)。

 許しとカウンセリングに関しては、三つのことが疑問として提示される。①許しは常に望まれるものか?②カウンセラーはカウンセリングの中に許しを呼び込む権力を持つか?③許しは教えられるテクニックなのか?このいずれの質問に対しても、答えはノーである。同時に、カウンセラーは許しを勧めることの危険性を認識しなくてはならない。虐待や物質依存といった分野においては、許しが非常に重篤な結果を生み出してしまうことがある。

 多くの許しの定義の中には、罪悪感や正義に関するものはあまり言及されていない。表面的には、許しのカウンセリングは被害者の不正義について認識する必要があると述べている。エンライトも「許しとは、加害者の不正義において、その加害者を共感と愛と共に見ることによって、否定的判断と効果をやめることである」と述べている(1991)。しかしながら、エンライトが述べる「加害者を共感と愛とともに見る」ということは非常に制約的で、結果を得ることは困難なものではないであろうか。

 そこで筆者は実践的な観点から「許しとは、知覚した加害者の不正義への個人的な罰への追及をやめ、決断という行為において、それに続く感情的な解放を経験することである」といえる。エンライトと異なり,筆者は感情的な解放を二次的なものとしている。また、共感や愛など肯定的感情も必要としていない。筆者の中心にあるのは、加害の後の一般的な反応である、不正義に対する怒りや罰したいという欲求である。許しとは、不正義への反応のプロセスなのである。もしカウンセラーが許しの決断の助けとなりたいのであれば、不正義について理解しなくてはならない。そして正義についても理解する必要がある。

 正義とは、以下の三種類に分けられる。(1)報復的正義、(2)修復的正義、(3)全般的正義である。まず報復的正義においては、その根底には「ゲット・イーブン」というものがある。それは破壊的にもなるが、もしそれが新しいバランスを作りうるなら効果的なものとなる。効果的な罰というものは、以下の三つの基準を満たすものである。①罰の基準は明確なものである。②罰の終わりが明確に決められている。③未来の罰を避ける必要条件が定義されたものである。そして修復的正義は、ムーブメントとして広く受け入れられてきた。アメリカ(日本でも)では、司法のシステムにおいて被害者は置き去りにされてきた。修復的正義はそれに被害者を参加させ、コントロール感と公正感を取り戻すことを目的とするものである全般的正義とは、公正と公平をベースとして、文化差を超えた正義として言及されるものである。

 裁きと罪悪感は、正義の一部分である。許しの理論家は非判断性の信奉者でないにも関わらず、それらは20世紀のヒューマニズム相対主義に取り込まれてしまった。それは、非常に簡便化されたキリスト教的な教条でもある。裁きと罪悪感は、我々の宗教性に依存している。宗教は許しの最もこのましい形も、望まない形もそれぞれ促進する可能性がある。幾人かは、簡略化された聖書のメッセージによって、性急な許しが促進されてしまっていると語る。ファリサイ人(ルカ七章36-47)に言及して、パウルティリッヒは後悔は許しを作り出さないが、許しは後悔を作り出すと述べている。ティリッヒによれば、許しは「にもかかわらず」の性格を持つとされる。ティリッヒは我々はみな誤りを犯すものであり、その不完全性と闘うものは、それを見ないものよりも容易く許しという解決への決断ができるであろうと述べている。被害者にいつまでも怒りを持ち続けることを要求することは、もし攻撃者が許しを請い求めなくてはいつまでも奴隷状態におかれ、いつまでも続く痛みに苦しむという現実的な問題がある。その他にも、「目には目を、歯には歯を」といった言葉も文脈が無視され多くの誤解を招いてしまっている。「旧約は怒りの神であり、新約は許しの神である」というのは、大きな誤りである。カウンセリングの中の許しを効果的に用いたいのであれば、セラピストはクライエントの宗教的背景を十分に理解している必要がある。

 許しが正義と慈悲のバランスで示されるものであれば、慈悲は正義のコンテキストの中で理解される必要がある。性急な慈悲は、不正義が提議する問題を回避するものである。

 そして許しの問題は、長い間自己の快を優先するか、コミュニティにおける正義の問題を優先するのかで、左右されてきた。今は、あまりにも多くの人が個人の快の問題に還元してしまっていたと言える。エンライトとフィッツギボンズは、実用主義に対して警告している。しかし、カウンセリングのプロセスと報酬と、広い社会における実用的かつ道徳的な影響というものは、不可分なものではないだろうか。セラピーの終了を自己中心的なクライエントの快というものをターゲットにしているだけでは、許しはセラピーの中だけで求められるものとなってしまう(それはより広いコンテキストから解離してしまう?)。

 筆者が提示する「プラグマッティック・モデル」とは以下のようなものである。

①声を与えること:不正義を認めること

 傷つきや怒りに対して声を与えることは、不正義、それに付随する感情、彼らの経験におけるクライエントの正しさを補償し知覚することを勇気づけるものであり、重要な最初の一歩である。南アフリカでの経験から、Krog(2000)は傷つきや加害、その感情を自分の言葉で語ることは「それに対するコントロールを持ち──あなたの望むようにそれを動かせる」という点で重要だと述べるのである。ここで重要なセラピストの役割は、怒りや憤怒をもつ権利を保証することであり、誰か別のひとの立場に立ったり、もしくは性急な行動に駆り立てるものであってはならない。クライエントが空想的な怒りをぶつける余地を残していなくてはならない。このフェーズの目的は、クライエントがより認知的で決断できる視点を持つことが出来るまで、強迫的な怒りや憤怒を減らすことにある。

②データを集めること

 これは冷酷に聞こえるかもしれないが、決断を下すためには冷静にデータを集めなくてはならない。感情が十分に落ち着いてから、ここでは攻撃そのもの、それが破壊した道徳的コード、それがクライエントのみならずより大きなコミュニティに与えた影響というものを分析することが含まれいてる。これはまた、痛みに満ちた経験でもある──ここでは、クライエントが自らの責任を問われることすらあるからである。これはクライエントを批判するのではなく、それに力を与えるためになされるものであることが原則となる。そしてまた、ここでは攻撃者のモチベーションを、それを罰するためではなく、コントロール可能なサイズまで下げなくてはならない。しばしば、被害者は人間が間違えうる存在であることを忘れるならば、加害者を非現実的に巨大な悪としてしまう。攻撃者を再人間化することは、それをコントロール可能とするためである。これが共感を促進するものであってもかまわない。

③決断的行為をすること

 定義の部分で述べられた通り、加害に対していかに反応するかということは、許しのカウンセリングの目標となるものであり、それは選択された行為の適応によってのみ超えられる。このフレーズで重要なのは、なんらかのセルフ・ヘルプの書籍やアドバイザーを一切避けることである(それは自らの決断においてなされなくてはならない)。そして決断をする前に、そのコストと利益を測定することが重要となる。否定的結末を予測することも重要である。

④a罰することを選ぶこと

 熟考した罰においては、クライエントはその権力や権威を持っているかを考えることが重要である。有効な罰を与えるにはいくつかのガイドラインがある(省略)。これらの基準は、明確に復讐心からの罰と区別するものとして重要になる。

④b罰を与えることを選ばない:慈悲的なオプション

 ここにもガイドラインが存在する。1)それは明確な期待される結果を持たなくてはならない2)それはそのプランに許す人の潜在的コントロールが持ち込まれたものでなくてはならない3)その行為のもたらす効果の基準が定義されていなくてはならない4)許す人は、その行為のもたらす対価を払う準備をしていなくてはならない5)熟考の末に、それが最良の結果をもたらすものであると示されなくてはならない、ということである。簡単にこの選択はなすべきではない。この選択は個人的なものであり、全てのセラピーにおいてクライエントが何を選ぶかを予想することはできない。

 行為のあとに感情的な解放がどれくらいで訪れるかに関しては、明確な答えはない。しかしサポートグループや支持的な友人の存在は、その時間を短く感じさせるものとなるのであろう。許しは多くのポジティブな効果をもたらすものである。しかし許しは、加害者を正義のために罰する時には、却下されなくてはならない。報復的正義は、もしそれが永続的な復讐となってしまうのであれば、破壊的なものとして働く。しかし、社会的正義のためには許しが当てはまらないケースも存在するであろう。

 

コメント

 「ゆるしのカウンセリング」ではなく「カウンセリングの中でのゆるし」について扱った論文。(欧米の)研究結果(Denton&Martin, 1998;Konstam, et al., 2002 )からも、ゆるしのカウンセリングでなくても、カウンセリングの中にゆるしが持ち込まれることは多々あるそうなので、それをいかに扱うかというガイドラインになるようなモデルではないでしょうか。ゆるしを手放しでいいものとして扱うことは、ステレオタイプ的な判断に陥ってしまいますよ、と。ところでAffinitoさんはセルフ・ヘルプ本に対して文句をここでは言ってますが、自分でもゆるしのワークブックを出してるんですよね(

When to Forgive: A Personal Guide: Mona Gustafson Affinito: 9781572241756: Amazon.com: Books)未読ですが、どうなんでしょう。

 

 URL(Google Book)

 https://books.google.co.jp/books/about/Before_Forgiving_Cautionary_Views_of_For.html?id=DeaEdNSSIYoC&redir_esc=y