ゆるしの心理学

心理学における「許し(forgiveness)」に関する論文や著作のあらすじとコメントをのっけます。

論文:被害者の役割、グラッジ理論、許しの二つのディメンション(2)

Baumeister, R. F., Exline, J. J., & Sommer, K. L. (1998). The Victim Role, Grudge Theory, and Two Dimensions of Forgiveness. In E. L. Worthington, Jr.(Ed.), Dimensions of Forgiveness: Psychological Research & Theological Forgiveness. Philadelphia: Templeton Foundation Press, pp.79-104.

 

おおまかな内容

 許しは多くの利益をもたらすものであるとされるが、にもかかわらず許しが示されないことがあるのはなぜであろうか。それを説明するのが、グラッジ理論である。それでは、許しではなく恨みを抱き続けることで得られるメリットとはなんであろうか。まず明らかなのは、実際的ないし物質的な利益を加害者から得られるということである。許しによってその負債を解消してしまっては得られるものはなくなってしまう。Tavris(1989)の研究は、いかに対人関係上の罪と、恨みを抱き続けることが実際の利益をもたらすかを現している。性的な不正を行った夫が、妻の家事を負担する結果になったというものである。もし妻がすぐに夫を許すのであれば、その利益は得られなかったであろう。そして許さないことは物質的な利益だけではない。それは罪悪感を引き出すものであり、そして道徳的優位性を維持させるものである。

 そして重要になるのが、許しはおそらく、加害が再び生じる可能性を増加させるものであるということである。理想的な許しと和解の状態は、関係性が完全に元通りになることであるが、しかしそれはまた加害が起きうるということを意味するものである。許しを表明しないことで、被害者が影響を持ち続けて、再びの加害が生じないように望むのである。例えば誕生日をボーイフレンドが忘れたとして、そのことを許さないままでいたならば、翌年はきっとそのことを覚えているであろう。そのため、もし加害者が真摯に謝罪し、責任を認め、再び加害を繰り返さないことを誓うのであれば、許しは生じやすくなるであろう。しかしその一方で、そのコストを嫌い責任を認めず謝罪を拒否する加害者もいるだろう。その時は許しが生じることは困難となる。実際に、加害者の態度というものは最も大きな許しの生起の要因であり、また謝罪はそれだけで許しを引き出す大きな要因となるのである(Exlienら,1997)。

 疑い用無く、許しの一つの阻害要因となるのが、加害による苦しみや他の影響の継続である。子どもを殺された両親は、喪失の影響をいつまでも受け続ける。しかし原則的には、影響の継続性は許しの決定要因にはならないといえる。許そうが許さなかろうが、加害の影響は続いているのである。セラピーによって過去の視点から未来の関係へと物事を移そうとしても、加害の影響の継続は未来における新たな関係を築くことを阻害するものとなるであろうし、過去を葬ることを困難にさせる。影響の継続性が許しの決定要因とならないのであれば、許すことや忘れることは加害がなにも起こらなかったと装うことでもある。そのため、加害の最大化や歪曲は、許しを同定する助けとなるべきである。加害の結果が継続しているときに許すことは、おそらく全く難しいものであるし、おそらくそれは幻影的なものであろう。加害は被害者の加害者への視点を根本的に覆すものである。それは以前の関係性に戻ることを不可能にするものである。たとえ加害がわずかなものであったとしても、信頼は戻ってこない。もし内的な許しが生じたとしても、和解は可能ではないかもしれないのである。

 多くの加害は、被害者の自尊心やプライドに関わる。そのように感じる被害者が許すということは、個人的にも対人関係上でも、面目や低い自己評価を受け入れるということである。他者によって自分がどのように評価しているかについての関心は、対人関係上での許しの生起において重要なものである。「静かな許し」は、公的な表れへの関心を現すものである。個人的には許していたとしても、自らの面目を保つためにそれを表明することを止めるのである。プライドや面目を失うことは、和解の最初のステップを歩むことの拒否であり、許しの表明を控えることにつながるものである。この議論の延長線上にあるのは、許しが時に弱さを現すものとして捉えられてしまうということである。許しの表明を拒むことは、強さのイメージの保持を望むからでありそれが必要だからである。恨みを抱くことは、そのためプライドを保つことに繋がるのである。これは報復への欲求と同様であり、そのために恨みを抱き続けるのである。報復とプライドは異なる概念ではあるが、それは時に繋がったものとして示される(&Baumeister, 1997)。人々はプライドを喪失したときに、対人関係上での暴力や悪に駆り立てられるのである。許しの理論は、プライドとリベンジの関係、プライドが許しの生起を阻むことについて無視をしてはならない。明らかに、面目を失ったあとの報復は対人関係上の行為であり、それは対人関係上の許しの阻害となるものであろう。

 最後の恨みを保持する理由としてあげられるのは、正義の原則やスタンダードへの一貫性に関わるものである。道徳原則において受け入れられないために、個体内や対人関係上での許しは阻まれるのである。人々は一定の許しのパターンを持つとしているが、許しは「容赦すること(condoning)」とは異なるものであるといわれている。しかしその境目は不確かであり、重なり合ったものである。もし被害者がうけた加害を認めなければ、加害者は被害者の許しの行為を容赦されたと解釈し、結果として加害者は再び同じような加害にコミットしてしまうことになる。ここで重要なのは、人々は通常の許しの表明を容赦されたものとして解釈してしまう可能性があるということである。もし加害者が許されることを見越して加害に及ぶのであれば、それらの加害を非難する原則は力を失ってしまうことだろう。ここに、許しの表明のリスクがある。そこで、正義の高いスタンダードでの一貫性がそのような行為が許されるべきではないとするのである。そのようなわけで、虐殺、拷問、虐待や、婚外での性交渉やイカサマなどで、人々は恨みを抱くことになるである。このような感情は個人的な道徳的原則に依存したものである。被害者は、彼らが加害を非難する原則を維持したいがために、許しを表明することを止めるのである。もし加害者が加害の間違いを認め、同じ道徳的原則に同意するのであれば、被害者の道徳的重荷は軽減され、許しを始めることがより簡単なことになるであろう。

 それでは、恨みを抱き続けることでのコストとはなんであろうか。個体内において恨みを抱き続けることは、すなわち被害者の役割が続くということである。まず主観的なコストとしては、否定的影響が続くということである。少なくとも個体内のレベルでは、恨みを抱き続けることは苦しみとストレスが続くことになる。そして被害者の役割に留まり続けることは、被害者の言葉が含む苦しみ、弱く、ストレスに晒されているということを、アイデンティティの一部を取り込むことでもある。「幸せな被害者」であるということはない。恨みを抱いている時にその対象とあうのであれば、そこには否定的な感情を持つ義務が生じる。なにもないとしても、怒りを継続することになり、それらは否定的感情の不健康への影響を与え続けることを意味する。許しを拒むことの感情的なコストは、許しをセラピーにおいて促進する中心的な理由となるであろう。例えば死者などへの恨みを抱き続けることは、否定的な感情のサイクルに入ってしまい、得られるものはない。こうした状況においては、個人的な許しは被害者の解放となるものであろう。そしてそうした感情的なマイナスを超えて、被害者の役割であることは受動的で消極的な態度となることにつながり、加害とは関係がない領域においても、成功や幸福のチャンスを逃してしまうのである。被害者の役割であることは、さまざまな面に悪影響をもたらすことが研究から示されている。

 そしてもう一つは、対人関係での恨みを抱き続けるコストについてである。まずそれはなにより、人間関係にダメージを与えるものである。恨みは関係性への対立物であり、楽観的な親密さや肯定的な社会的つながりと相反するものである。そのため、許しは何より対人関係を癒すものとなるのである。許しを拒むことは、本質的には反社会的なものである。恨みを抱き続けることは、時に関係性を終わらせるものとなるのである。

 

コメント

 バウマイスターとエクスラインのグラッジ理論に関する論文の後半。ゆるしのネガティブな側面に関して、かなり鋭く分析しています。のちに謝罪の効果についてこの二人はこれまた重要な論文を書いていますが、このあたりの議論から出てきたものなのかなー、と。

 

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