ゆるしの心理学

心理学における「許し(forgiveness)」に関する論文や著作のあらすじとコメントをのっけます。

論文:最良のゆるし(1)

Griawold, Charles L. (2007). Forgiveness: A Philosophical Exploration. London; Cambridge University Press. Chapter2 "Forgiveness at its best"より

 

おおまかな内容

1:ゆるし、報復、憤り
 現代のパラダイムにおけるゆるしとは、哲学的にはどのように規定されるだろうか。バトラーはゆるしとは報復を捨て去ること(forswearing forgiveness)を求めているといったが、これは正しい。ゆるしの一部には報復を否定することは、究極的には正しいことであるが、しかしこれは自明のものではない。ゆるしは、加害や加害者に対するある道徳的な反応である。バトラーがいうように、憤り(resentment)とは、故意に行われた加害への嫌悪の一部である。もし憤りがなければ、そこにはゆるしも存在しない。だが、ゆるしとは「単に」憤りをやめるというものではなく、むしろ憤りを中和(moderationg)するものである。憤りをやめるということは、加害にまつわる出来事のすべての「すべての」否定的な感情をなくすということではない。しかしゆるしは、憤りに埋め込まれ続いているさげすみや軽蔑などの感情を乗り越えるものである。この点において、ゆるしは得なのである。
 ゆるしは、憤りをやめることを求めているのだろうか。バトラーの理論だと、第三者から安定して受け入れられ、抑制されない感情よりも低いレベルに憤りを押し下げ、同情される適切なレベルに憤りが中和されることを含むことである。バトラーによれば、加害に適当以上のものでなかれば、憤りを抱いていたとしても「XはYをゆるす」と言えるのである。憤りは準認知的な感情である。そのためゆるしは加害に適切な適当に中和された憤りと、憤りを手放した心のフレームに向かってコミットする人格を必要とするのである。ゆるしは完了形よりも、現在形で語られるものである。このアプローチは、ゆるしを完全に達成することが困難であると認めるものであるが、「全か無か」の事柄に押し込めないことを勇気付けるものである。バトラー主義者であることは、復讐をやめて、憤りを適切なレベルに中和することをゆるしとするという誘惑がある。もし、考えられるすべてのことに憤りが適切なものであれば、実際はゆるしは不可能であるか未熟なものとなってしまうだろう。ゆるしは適切な憤りを取り除こうとするものではない。それは、憤りがもはや適切ではないという認知のあとに続くものなのである。
 
2:憤りと自尊心
 ギリシアやローマの完全主義者たちは、ゆるしを徳としてみなしていなかった。憤りは、他者に対するわれわれの脆弱性のサインである。Jean Hamptonにとって、憤りは品が傷つけられたことに対する反応である。加害行為は、考えるよりも低い地位であることを明らかにする。それは自己評価が下がってしまうことである。憤りは弱さに刃向かうことである。自身のランクや価値についての高い信念が、憤りを乗り越えることになるのである。そのため「悪意ある嫌悪」、憤りと自己自身の低い程度に続く、自己嫌悪の戦略が重要である。これはニーチェの「ルサンチマン」に似た性格のものである。憤りは、自己防衛の機能を持っている。聖人ではないわれわれにとって、二次的な加害の可能性、他者からどう見られているかということは最大問題なのである。またより重要なのは、憤りの持つ非人格的側面である。それは、そのように誰かを扱うことは間違っているということである。憤りは、加害の持つ間違いや不公平さに抗議するものである。それは、スミス的な道徳的観点に立つものである。言い換えるのであれば、憤りは強力な憤慨(indignation)の要素を構成要素としてもっているのである。憤りは正しい尊重を自身に要求するものであり、加害者にそれを求めているという意味で、それは加害者をも尊重する。そしてゆるしも同じように、自身と加害者への尊重を要請するものである。そのため、ゆるしは容赦(condonation)や免除(excuse)といった、徳ではないものに堕ちてはならないのである。ある特定の状況や規範(つまり自己と加害者の尊重)において、ゆるしは打ち立てられるのである。
 
3:ゆるされること:やり方を変え、悔恨し、後悔する
 二者関係のパラダイム的ゆるしにおいて、相互依存する加害者と被害者はともに変化しなくてはならないが、それは非対称的である。まず、それは加害者の変化からはじめられる。加害者がある特定の個人を傷つけ、被害者に加害者がゆるしを請い、もしそれが受け入れられば、それは加害者に授けられる。被害者の憤りは加害者の行動によって引き起こされるが、しかし正しくは、われわれは行動ではなく人格をゆるすのである。
 ゆるしの前提となるのは、加害者も被害者もぞれぞれ道徳的存在であるということである。つまり、お互いがそれぞれの相手に相互依存する力を持っているのである。加害者は被害者に依存してゆるされるのであり、被害者は加害者に依存してゆるされる。この相互依存性がゆるしのロジックの一部であり、それがゆるしを徳としているのである。
 被害者は憤り、すくなくとも憤りを続けることが適切であることを諦めるために、以下の理由が必要である。1)まず加害者が、加害を続けることをもはや望んでいないということを示す行動をすることである。そのためには、まず加害者が責任のある主体であることを認めなくてはならない。2)次に、加害者がその行動そのものが否定すべきあるものであるとし、再びそれをなすことをも否定しなくてはならない。この否定によって、加害者が単に加害をなしたのと「同じ人」ではないことを示すのである。3)加害者は被害者に悔恨を経験し、表明しなくてはならない。これは単に悔恨を感じればいいというわけではなく、コミュニケーションをとらなくてはならないということである。4)加害者はもはや傷つけることはない人間になることにコミットしなくてはならず、そのコミットは言葉と同じように行為によって示されなくてはならない。ゆるしは単にレトリカルな行動の変化でも、単なる感情の変化でもない。これらの悔恨を構成する4つのステップは、ゆるしのアピールに必須の要素である。ゆるしが容赦ではないのが、それが加害者が過去の責任のすべてを負うからである。5)加害者は、被害者の視点から、被害によってあたえたダメージを理解していることを示さなくてはならない。それは被害者の言葉を聞き、同情(compassion)を示すことである。加害者は、共感のエクササイズをすることが求められる。6)加害者の後悔の表明は、いかに過ちを犯したか、いかに間違いが加害者の人格のすべてを表していないか、加害者が肯定に値するか、そのナラティブを説明するものである。被害者は、この人は誰か、どのように私を傷つけたか、ゆるしに値すのか、ということを求めている。この要求に応えることが必要となるのである。
 これらが一緒になることで、加害者がゆるされることが請け負われるのである。なぜこの六つのステップを踏まなくてはならないのか。その動機付けとなるのが、罪悪感である。罪悪感は、良心によって作られる動機づけと理解されうる。これはわれわれの社会的・相互的存在という本質から強烈に迫るものである。この罪悪感は、道徳的孤独から解放するようなゆるしによって軽減されるものである。スミス的な共感の理論が、ここには当てはまるものである。
 
コメント
心理学といいながら哲学。その中の「最良のゆるし」とは何かというのを扱った章の、最初の四分の一ぐらいです。バトラーのゆるし理論の解釈からはじまり、加害者のゆるしのコミットを扱った部分まで。続きます。
 
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