ゆるしの心理学

心理学における「許し(forgiveness)」に関する論文や著作のあらすじとコメントをのっけます。

論文:被害者の役割、グラッジ理論、許しの二つのディメンション(1)

Baumeister, R. F., Exline, J. J., & Sommer, K. L. (1998). The Victim Role, Grudge Theory, and Two Dimensions of Forgiveness. In E. L. Worthington, Jr.(Ed.), Dimensions of Forgiveness: Psychological Research & Theological Forgiveness. Philadelphia: Templeton Foundation Press, pp.79-104.

 

おおまかな内容

許しの生起は、対人関係上のものと個体的なものに分けられる。前者は主に関係性を修復するものであり、後者は主に心理的な負担を軽くするものとして考えられる。そのため、許しは二つの次元に分けて考えることができる。まずは(1)内的で、被害者の感情の状態に関わる個体内の次元におけるものであり、(2)進行中の関係において、許しが生じたり失敗したりすることに関わる対人関係上の次元のものである。

許しが加害に対していかに反応するかに依存している以上、許しの理論は両者の次元において被害者の役割が保持するコストと利益に対して関心を払わなくてはならない。許しの反対を恨み(grudge)を保持することと考えるのであれば、恨みを保持することの明示ないし潜在的利益について分析しなくてはならないであろう。「グラッジ理論(the grudge theory)」と許しの理論は、鏡をはさみ表裏一体なのである。もし加害が生じなければ、許しは必要ないであろう。許しの理論は悪の理論の延長線上にある。

許しとは、被害者が自らを被害者の役割であることを良しとせず、通常に戻ることを選択することである。その反対として、恨みを抱き続けることを選択したのであれば、被害者はその役割に留まることになる。そして被害者だけでなく、加害者もその加害に対して反応する──あるものは許しを請うだろうし、あるものは被害が発生したことすら拒むであろう。加害者の反応によって、許しは大きく左右されるものである。また加害者が罪悪感を感じることもある──罪悪感は、ドイツ語で借り(debt)と同じ言葉である。この罪悪感と借りの関係は、言葉の表面上の違いを超えて重要なものである。すなわち、許しは借りの解消なのである。対人関係上においては、加害は被害者に対して加害者が借りを作ることと理解されるのである。借金のアナロジーから理解されるように、借りの解消として許しを考えるのであれば、そこにはコストが発生するのである。これが、許しの理論に益するような「グラッジ・セオリー」である。

また、近年の研究から、被害者と加害者は同じイベントを経験していたとしても、ずいぶんと異なる経験をしていることが指摘されている。被害者は加害を増大させ認識させ、加害者は加害自体や自己の認識を矮小化して認識させる。このことが、許しの問題において複雑な問題となる。バウマイスターの「マグニチュード・ギャップ」の理論が示すのは、被害者が失うものは加害者が得るものよりも多いという一般的なパターンである。これが負債の解消を困難なものとする、すなわち両者が納得する形で補償はされることはないのである。近年の研究においても、加害者と被害者が共に事実を都合のいいように改変していることが明らかになっている(映画『羅生門』のように)。

許しは一方では認知に基づいた感情的態度であり個体内のものであるとされる。感情的次元における許しはおそらく、認知的過程を中和させ、加害をそれほど悪いものではないとリフレームングしたり、加害者の視点を理解させるものであると考えられる。一方で対人関係上で生じる許しは、報復を探るのではなく、加害の前の状態に徐々に関係性を戻すようなことであると考えられる。これはまた、加害者が罪悪感を抱き続けていたり行動を変化させることを必ずしも必要としないということも意味している。他の社会的行動と同じく、許しは特定の状況において生じるものであり、他者によって公的に目撃され得るものである。

許しを二つの次元から考えたとき、その組み合わせから以下のような四つのシェルからなるマトリックスを描くことが出来る。

(1)「空虚な許し(Hollow Forgiveness)」:これは個体内での状態の変化を抜きにして、対人関係上での行動が示される許しである。ここでは加害者は許しの表明を行うものの、実際には個人的な許しの感情は生じていない。憤りを抱きつつも、「あなたを許すわ」と述べるような様な状態である。エンライトたちのグループがこれは初期の許しの状態であるとしている。マグニチュード・ギャップの視点から述べれば、被害者にとって「あなたを許す」ということは許しの始まりでしかないのに、加害者にとってはそれは終わりのように感じることである。関係性は元に戻るものの、被害者の中に憤りは存在し続けている。さらにやっかいなことは、被害者はその感情を抑圧してしまうということである。許しの表明によって負債を放棄し、道徳的な優位性を失ってしまったため、そうした負の感情を抱くことは正当性を持たなくなってしまうのである。皮肉なことに、そこでは加害によるコストが再び運び込まれてしまうのである。もし許しを本質的に個体内のものであると解するのであれば、このタイプの許しは「偽の許し(pseudoforgiveness)」であるし、本当の許しではないだろう。とりわけ、これは被害者にとって不利なものである。そのため筆者らはこのタイプの許しを「空虚な許し」ないしは「外向けの許し(outer forgiveness)」と名付けているのである。このタイプの許しは、理論的にも実践的にも二つの次元の差異を強調することになる。一般的に、個体内での許しは二つのステップ、つまり許すことを始めて、次に怒りや憤りを手放すという手順を踏む。しかしながら、対人関係上での許しはそうした二つのステップを踏むとは考えられていない。この誤解を解く手段としては「私は貴方を許そうとし始めるでしょう」などと言うことがあるだろう。

(2)「静かな許し(Silent Forgiveness)」:二つ目の組み合わせは、その反対で対人関係上での許しを抜きにした、個体内での許しである。このケースでは、被害者は加害者に対する怒りや敵意を消し去っているにも関わらず、それを表現することを止めているのである。そのため被害者には、加害者に対して謝罪や補償をすることを負わせたままである。静かな許しは、実践的には勧められるものである。グラッジ・セオリーにおいては、これは被害者に有利な戦略である。許しのアドバンテージを利用し、ディスアドバンテージを避けているためである。そしてある状況においても、再びの加害を本当に怖れるあまりに、許しの表明に慎重になっている場合もある。

(3)「全体的な許し(total forgiveness)」:対人関係上でも個体内でも許しが生じているのであれば、それは「全体的な許し」となる。

(4)「許さない(unforgiveness)」:そして対人関係上でも個体内でも許しを示していないのであれば、それは許していない状態であるし、「全体的な恨み(total grudge)」の状態であると言えるだろう。

 

コメント

社会心理学者であるバウマイスターとエクスラインによる「グラッジ理論」が示された重要な論文の前半部。ゆるしを内的なものと外的なもの、二つの次元に分け「空虚なゆるし」と「静かなゆるし」という二つを提示している。「空虚なゆるし」の危険性について論じた部分は、かなりの説得力。臨床的には、空虚なゆるしを見抜くことが重要になるのではないかと。戦略的にも「静かなゆるし」というのは推奨されるてもいいんじゃないかなと思うけど、あんまりされてないですね。

 

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