ゆるしの心理学

心理学における「許し(forgiveness)」に関する論文や著作のあらすじとコメントをのっけます。

論文:ゆるすこととは贈り物である

Morimoto, A. (2009). Forgiving is Fore-giving: Reaching out for Peace in Interpersonal Relations. The Japanese Journal of American Studies, 20, 193-210.

 

おおまかな内容

 もし平和がその名に値するのであれば、それはカントのいう「恒久平和」でなくてはならない。しかしそれは人類においては、エデンの園でしか実現されていないものであり、平和とはその欠如において認識されるものである。そこで筆者は、平和の欠如から話を始めている。そこで用いるのは、現代アメリカにおける二つの例である。

KKKにより殺害された一人の黒人少年の母親のストーリィ

②強盗に加担してしまい、23年間の逃亡の末名乗り出た一人の女性のストーリィ

 現在、心理学者からは「未熟な許し」の効果を指摘する声があがっている。しかし、「成熟した許し」とは一体なんであろうか。両者のストーリィにおいて謝罪と許しは公的に示されたが、共に多くの議論点を含んでいる。特に後者においては「過去の傷つきに留まることを望まないが、許しを与えることを拒む」という女性が登場する。これは、許しが「贈り物(gift)」である性格を示すとし、筆者はそのポイントとして以下の三つを挙げている。

1)許しとは、まず何よりも、被害者自身の言葉とタイミングで行われるものである。誰も許しを強要することはできない。ハンナ・アーレントの「彼らが罰することができないものを、人は許すことができない」ということである。もし与えることが与えるものの意志によるのであれば、それは正義の充足によるものではない。正義は時に許しを要求するが、それは正義に十分に値するときである。結局、許しは正義の侵害なのである。許しは定められた法律の侵害であり、それはイエスの降臨において始めて徳としてみられたのである。正義は与えるものと貰うものが同じであることを要求される。しかし許しとは、既に与え失ってしまった人が、さらに相手に与えるものなのである。始めに与えることは意志に反して行われるが、二度目に与えることは意志によって行われる。許しとは行き過ぎた与えることなのである。二つの物語の加害者は、許しを願い出る権利がないことを自覚していた。真摯な努力によって許しを乞い願うことはできるが、しかし同時にその努力は無駄になることを知らなくてはならない。許しが与えることである必要がもう一つのリアルは、それは被害者が加害の後に自らの「コントロールの感覚」を取り戻すシンボルとなるからである。許すこと、もしくはそれを申し出ないことの決断は、コントロールを取り戻す重要な経験となる。宗教やカウンセリングなど他の理由で許しを強要することは、その重要な経験を喪失させ、再被害化することにさえなるのである。

2)第二に、許しとは被害者の誠実な告白、後悔、謝罪を受け入れることである。しかし、その謝罪が真実なものであるといかに分かるのか。ある心理学者は、それが「他者志向」であるか否かによって確かめられるとする。告白は被害者だけでなく、加害者のものでもある。謝罪は許しを受けるために提示されるが、しかしそれは許しという贈り物を保証するものではない。謝罪はときに、それが遅れて十分でなくとも、「倫理的な感情の力」を示し、加害者をコミュニティに修復させるようなものとなるのである。しかしここで注意しなくてはならないのは、許しを加害者の謝罪の有無に依存させてしまうことは、被害者を再び加害者に依存させることで、「二度目の攻撃」となってしまうのである。しかし、許しはそうした加害者の告白が先行することに縛られないものである。許しは十分な保証があってなされるものではない。それはポイントではないのである。

3)最後のポイントは、許しとは許す人の中で既に打ち立てられた現実に基礎を持つということである。もし許しが贈り物であるなら、それはその人の中で既に準備がなされていなくてはならない。許しは、その人自身のペースとタイミングで徐々に成熟されなくてはならない。許しを請うことは、それ自体が許しを作り上げるのではなく、それは許しが表明されるのに必要なものなのである。許し(の交換)は、平和条約に例えられる。それは平和をもたらすために行うのでなく、平和な状態において結ばれるのである。

 

コメント

 現代のアメリカにおける二つの事件から、ゆるしの本質が贈り物(gift)であると示した論文。筆者は神学者ですが、ゆるしについて非常に重要な議論が展開されています。これに当てはまらない反証はあるのでしょうけども。「現実を追認するものとしてのゆるし」という概念は、現実を創造する神には罪人をゆるすことが不可能であるという神学的思惟がその背後にあるのではないかなと邪推。しかし、タイトルはなんて訳せばいいんですかね、、、

 

URL

http://sv121.wadax.ne.jp/~jaas-gr-jp/jjas/PDF/2009/11_193-210.pdf

 

何かしらあればokazukinekoあっとじーめーるどっとこむ、まで