ゆるしの心理学

心理学における「許し(forgiveness)」に関する論文や著作のあらすじとコメントをのっけます。

論文:女性、虐待、許し(1)

Lamb, S. (2002). Woman, Abuse, and Forgiveness: A Special Case. In S. Lamb & J. G. Murphy(Ed.), Before Forgiving: Cautionary Views of Forgiveness in Psychotherapy. New York: Oxford University Press, pp.155-171.

 

おおまかな内容

 許しの議論で見過ごされがちなことは、許しは明らかに「自助の戦略(self-help strategy)」を超えたものであるということである。それは恩赦でないにも関わらず、攻撃者への贈り物となるようなものである。しかし許しを心理療法で用いようとする人たちは異なった見方をしている。許しによる利益が個人のメンタルヘルスに大きな利益になると述べるにも関わらず、Enright(1998)やNorth(1998)と言った理論家たちは許しを「セルフ・ヘルプ」と呼ぶことを拒否している。特にEnrightは許しを「自己に対する贈り物以上のもの」と述べる。ほとんどの許しの促進者は、それが許す人の利益になると述べつつも、また許しは究極的には他者志向であることを強調している。また彼らの許しの定義において、それは許す人の他者志向への内的変化に関わるものであると言われている。しかし許しが関係性を修復するもの、また許された加害者の行動が次にはよりよいものになるとは断言できない。それはギフトとして、なんら拘束性がないものである。許しは徳であるからとか、社会のためであるから追及すべきものであるとかは言えるが、セルフヘルプの議論なしではそれが個人の利益になるとは言えないのである。

 許しがその個人のためであることを認めない人たちは、どこか不誠実である。研究者達は、許しを教えたりそれを学ぶことは、肉体的・精神的な健康を手に入れることであると述べている。それらは許しが個人の益になることを表すものである。そして研究者の多くの例は、許しができなかったり許しを必要とする人たちであり、何らかの心理的援助を必要としている人たちである。これらの筆者達が暗に前提とするのは、不安や神経質、抑うつや猜疑心、不信感でないやり方が心理的健康への道であるということであり、怒りはその人を弱らす感情であるということである。しかし、そうした人はそのような感情を選んだのではないのか?確かに、被害者に許せないことに対する責任を負わすことは問題である。そうではなく、本質的に被害者は彼女の感情に責任を持っているということである。「彼女は痛みを手放すことが出来ないので、彼女は許すことが出来ないです」は「しない」のではなく「出来ない」のである。しかし、許しの促進者は許しを選択として捉え、許せないことを「手放すことを拒否する」と述べるのである。許しの促進者たちは、虐待の帰結やトラウマというものをクライエントの許す能力の欠如と暗にみなしているのではないか。彼らはまた、被害者のリアクションを過度なものとして──「人生を支配している」とか「全ての存在を侵襲する」とかみなしてしまう。許しの促進者は、怒りや強い感情を怖れているように見える。「怒りからの解放」や他の全ての否定的感情は、彼らの定義の中心にあるものである。

 怒りによって生気を使い果たしてしまうことは確かに不幸であろう。しかし、許しが怒りから解放される唯一の方法なのであろうか。被害者は、怒りを抱え込む(embracing)ことでもそれから解放されるかもしれない。ある感情を深く経験することは、それに抵抗するよりも解放を導くものとされる(喪服追悼)。許しの心理療法家は、時に加害者とその行動を分けるようにいうが(罪を憎んで人を憎まず)、しかしなぜ加害者の、それもとりわけ反省しない加害者にそれを適用しようとするのか。もし人格をその行為と分けて考えることが出来るのであれば、被害者自身もその被害と自分自身を分けて考えることが出来るのではないか?人は、自らを過去を覚えていながらも、その自分とは今とは「違うもの」として見ることができるのである。ある人はそれを許しのある側面と呼ぶかもしれないが、それは許しの定義の中には含まれていないのである。

 共感はより許しを導くものであり、より世界が共感的になることはよりよい世界を招くことになるだろう。しかし、許し抜きの共感というのは存在しないのだろうか?無条件の許しは、加害者の変化を起こしうるかもしれない。しかしそれは、共感においてもそうである。しかし許しの促進者は、許し抜きの同情というものを、それは明らかに許しのオルタネティブとなるにも関わらず、拒否するのである。それは彼ら促進者が、許さないにもかかわらず共感するという、アンビバレンスに耐えれないからではないだろうか?しかしセラピーとはクライエントのアンビバレンスを保持できるように援助するものではないのか?損なわれた人は、憤りと同情の両方の感情を持つことができないのであろうか?

 

コメント

 前回に引き続き、Before Forgiving: Cautionary Views of Forgiveness in Psychotherapyから。フェミニストの心理学者で心理療法家のLambの許しのセラピーへの疑問。実は順番を多少前後させ、(2)に回した部分があります。まあこのブログは主におおまかな内容を紹介するものなので、本当に知りたい人はきちんと原典にあたることを強く推奨しますよ!

 

 

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