ゆるしの心理学

心理学における「許し(forgiveness)」に関する論文や著作のあらすじとコメントをのっけます。

論文:女性、虐待、許し(2)

Lamb, S. (2002). Woman, Abuse, and Forgiveness: A Special Case. In S. Lamb & J. G. Murphy(Ed.), Before Forgiving: Cautionary Views of Forgiveness in Psychotherapy. New York: Oxford University Press, pp.155-171.

 

おおまかな内容

 この論文で筆者は、許しについて反対するある議論を展開する。ある特定のケースやグループは、歴史的状況や文化における特殊性において、許しを促進されるべきではないということである。それが、女性である。

 許しは社会全体や他者のためよりも、その個人によって有益なセルフ・ヘルプの一形態であり、虐待されている女性にもその見方を提供するのである。しかしそうした女性に、反省していない加害者への許しを努力させ怒りを手放させようとすることは、女性的なステレオタイプの中で作用するものではないのか?被害者が加害者を許すには、自尊心だけでなく、自律性(autonomy)や主体性(agency)を必要とする。しかし「素晴らしくあれ(nice and good)」の文化的プレッシャーの中で、それは虐待の破壊的な作用と同じく、主体性を減じてしまうものではないのか。もしも許しが自律的な主体から発されたものでないのであれば、それは女性の心理的・道徳的利益に反するものとして働いてしまうものではないだろうか?

 女性は文化的価値の中で、怒りのような感情を持つことを問題とされてきた。とりわけ女性は、未熟な許しを行ったり、攻撃を見逃してしまう危険性が高い(Forward, 1989)。社会的実践の中で、若い女性は争いを解決し、傷を癒し、関係を修復することを望まれている。女性の大きな価値は「ケア」することである(Gilligan, 1982)。怒りや憤りを抑圧することで「良い少女」「良き女性」となることを女性は強いられている(Becker, 1997)。KrestanとBepro(1992)は、アルコール依存症の妻達が、生活を維持し、夫たちのケアをすること「イネーブラー」としてその症状を継続させてしまっていると指摘する。ニーチェ(1969)は『善悪の彼岸』の中で、許しが「憤りの昇華」となることを警告している。

 女性の許しは、傷つけた人だけではなく自身の怒りに直面化することを避ける手段となってはいないだろうか。このような許しは「偽の許し(pseudo-forgiveness)」と呼ばれるものである。また女性は、自らの子どもを守るために夫から受けるDVを許してしまっているかもしれない。Trainer(1981/1984)では「役割期待の許し」として、弱者の個人が強者の個人に、なんら攻撃者が変わることなく許してしまうことを観察している。そうした許しは,繰り返されることで怒りを増幅させてしまう。女性の怒りは、彼女が従属する相手への怒りである時、大きな問題となる(Tavis, 1982)。許しはこの問題を生じさせやすくするものではないか。

 簡単に許してしまうことが、自身への尊敬の欠如であることは、Murphyらによって指摘されることである。フェミニストたちの活動は、その権利を取り戻そうとするものでもある。Olio(1992)はまた、性的虐待の生存者達に許しを勧めるセラピストがいることに警告を発している。許しを怒りからの解放という目的で論じることは、女性を「メンタルヘルス」という言葉で懐柔しようとすることに似ている。性的な親和性は、女性に自尊心を売り渡すことで、加害者を許し憤りを消し去ることを促している。許しの定義の中に怒りや憤りが含まれていること自体が、女性にとって許しが不健康なものであることを示すのではないか。許しの促進者は、女性に怒りを経験させたとしても、その後にそれを乗り越えさせようとするのであれば、それは「良い」女性のステレオタイプに捉えられてしまっているのではないか。文化的規範の中で、女性という性役割が、より彼女達に許すことを義務を課しているのではないか?

 被害者の役割というもの、社会的に女性の特別な役割とされるものである。しかしそれ以上に、被害者を「生存者」として「高貴な獣(noble creatures)」としてしまっているのではないか。被害者は常に、それが純粋であるかそうでないかを問われる。純粋でなければ、すぐに非難されることになってしまうからである。性的加害者が許しを乞うとき、その行為は被害者を操る力を持つ。もし被害者が、その役割の「善と悪」の善の役割を果たそうとするのであれば、その被害者は許しを示し、同情を示さなくてはならない。それは被害者の役割である怒り、憤り、復讐心とは矛盾するものである。謝罪はときに、相手に「許しのプレッシャー」を与えるようなものとなるのである。

 歴史的に下位に置かれていた女性にとって、怒れることを拒まれることはその下位に置かれることを促進させるものであった。そのために、セルフ・ヘルプとしての許しは不道徳的なのである。レイプやDVはその女性個人だけでなく、女性全体への攻撃なのである。許しの行為は、単に対人関係的なものではなく、社会的な影響持ち、個人の感情的幸福を超えたものなのである。許しは社会全体を良くするものであると言われるが、怒りや憤りはそうではないだろうか?

 女性における許しの問題における、より重要な倫理的問題は、許しと責任の問題である。許しによって相手の謝罪や後悔が導かれるというのは、心理学的オプティミズムでしかないのではないか。もし変わることがなければ、虐待が続くだけである。「許して欲しい」という言葉は、単に「それ以上怒るのを止めて欲しい」ということではないのか。

 それでは、どうするべきなのか。まず、女性は許しの欠如において、文化的なサポートが必要である。彼女らは、許しが単なるオプションであることを教わる必要がある。次に、傷ついた個人は彼女の怒りが完全に受け入れられるものであり、捨て去る運命にあるべきものではないということを理解しなくてはならない。そして、被害者への共感が被害者を助けるものであるということである。それは文化が促進する、被害者に向ける恥や自己批判というものに反対するということである。

 またもし加害者に変わって欲しいのであれば、許しではなく、同情(compassion)で十分なのではないか。同情は自己反省と彼がしたことを怖れさせるのに十分なものである。同情は許しとは異なり、アンビバレンスがその鍵となるものである。傷ついた被害者は彼がしたことを覚えていながら、被害者からの愛を感じるのであれば、そうたことを起こさなければ結果が違ったことを意識させることになる。許しの促進者は、憤る人がその内的な不安定さから解放され、傷つけられた人が加害者への同情を失わないことを要請する。しかしその両方は、許し抜きでも達成される。前者に関しては、時間と空間といった物理的距離をとることや、「忘れる」ことで達成する。そして後者は、加害者の魂や性格というものを、後悔のあるなしに関わらずケアすることで達成される。アンビバレンスな世界を、憤りを諦めること無しに受け入れるのである。とりわけ女性の場合、怒りや憤りを保持しつつ、こうした種類の共感を示すことで、加害者の変化の可能性を切り開くことができるかもしれない。

 

コメント

前回が理論的な部分であるとしたら、今回は実践的な話。女性に「許すべき」という文化的なプレッシャーがあることは他でも指摘されている(例えばEnright&Fittzsgibbonz, 2000)。それを具体的かつ積極的に論じたもの。許しを被害者の内面の変化として捉えることの危険性が、鋭く指摘されている。許しを倫理的・道徳的に正しく用いるためには、被害者と加害者が置かれたコンテキストが非常に重要な役割を果たすのではないですかね。

 

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