ゆるしの心理学

心理学における「許し(forgiveness)」に関する論文や著作のあらすじとコメントをのっけます。

論文:カウンセリングの中のゆるし

Murphy, J.G. (2002). Forgiveness in Counseling: A Philosophical Perspective. In S. Lamb & J. G. Murphy(Ed.), Before Forgiving: Cautionary Views of Forgiveness in Psychotherapy. New York: Oxford University Press, pp.41-53.

 

おおまかな内容

 現在、カウンセリングの世界では「哲学的カウンセリング」が一つのムーブメントとなっている。その例の一つが、Enrightによる許しのカウンセリングの中への導入である(※このマーフィーが批判するEnrightの論文のタイトルは"Counseling Within the Forgiveness Triad"である)。まず疑問となるのは、哲学的カウンセリング全体への問いである。哲学の価値は、信念や道徳の領域における「合理性(rationality)」というものそのものの中にある。しかし、カウンセリングにおいてそれは果たして目標となりうるのであろうか。哲学的なアプローチを用いることと、哲学的なカウンセリングを行うということは違う。マルティン・ブーバーは(おそらくナチスがセラピー的な助けを模索していたということを批判する文脈で)セラピストは彼が「真実の」とか「実存的な」と呼ぶ罪悪感をクライアントが扱うことを邪魔してはならないと論じているのである。

 Enrightは「許しの三角形」として、他者を許すこと・他者からの許しを受け入れること・許し自体の三つを挙げている。そして「それぞれの面において、哲学的合理性を示し、それ故にカウンセリングでも正しく、合理的かつ道徳的に許しを正しいものとしている」と述べる。しかし、エンライトは哲学的合理性がなぜカウンセリングで受け入れられるかについて説明していないのである。しかしおそらく、哲学的合理性は、セラピーにおける目標──例えば不安を減少させること──とは緊張をはらむものであろう。

 Enrightは、哲学者達が傷つきが生む憤りが自己尊敬のサインであり、それゆえに準備の出来ていない許しが、徳というよりも奴隷制の悪を示すものであろうことに気づいている。加害への憤りは、加害が示す「私はあなたを私自身の目的のために用いる」というメッセージに賛成しないということであり、そうした仕方で自己尊敬を表すものである。これは自己尊敬がある人物は決して許さないということではなく、しかしそのような人物の許しは加害者の変化(典型的には謝罪という、加害のメッセージを撤回するもの)に基づいてなされるということなのである。一方でEnrightは、許しの生起を謝罪の有無に準拠してしまうことは、大きな力を加害者に与えることになり、二度目の加害を生じさせてしまうものであり、それゆえ許しは自己尊敬を示すものであると述べているのである。

 私(Murphy)とEnright、どちらが正しいのか?その答えは、クライエントやコンテキストに高く依存するであろう。重要なのは、「いつも許しがトライされる」や「決して許しはトライされない」など、いかなる一般的な視点も正当化されないということである。私(Murphy)の主張は、憤りを保持すべきであるという議論ではなく、それが常に悪いものではなく、時に自己尊敬のために正当化すべきものであるということである。

 Enrightは被害者化されたクライエントが彼らを傷つけたものを許すということを勇気づけることに対して、だいたいは良い結果を得ているようである。しかしそこには幾つかの疑問は残る。まず、それは既に許しにコミットメントしているものしか結果を得られていないのではないかということである。次に、本当にクライエントは自己評価を高めることは出来ているのか、それは単にクライエントが心地よく(feels better)なっているだけではないかということである。そして、それに関わることだが、それは単に「無駄な抵抗をしてバカをみる」ということを教えているだけではないのか?性急な愛や許しというものは、特定の神学的視点からも肯定されるものであるが、しかし加害者が被害者に対して与えることは、カウンセラーにとって常によいアドバイスではない。マルクスが「宗教はアヘン」という言葉で、宗教が抑圧者への服従を生んでしまうことを批判したが、同じことが許しにも言えるおそれがあるのではないだろうか。未熟な許しの戦略が招く結果は、さらなる被害者化である。そしてそれは、加害者にとっても悪影響である。憤りに直面する機会を逸し、それがさらなる道徳的な腐敗を生んでしまうのであれば、それは謝罪の機会を喪失させ、被害者の再生の機会を奪うものとなってしまうだろう。「罪を憎んで人を憎まず」というものは困難であるのであるが、その人と罪の同一化を謝罪や後悔は打ち破る機会となるようなものである。もちろん、許しが真実の後悔と謝罪を生む物語もあるし、それは否定されるものではない。しかし、懐疑の余地はそこに残るのである。

 Enrightのゆるしの理解の背景として、キリスト教的な考えがあるように思われる。Enrightの信念には、1)許しとは心の内的な変化であり、2)すべてのそれらの外的な行動は社会的和解のためにある、ということの間に鋭い対立がある。これは許しの前提となる状況を重視し社会的コンテキストにおいて契約社会に復帰するために許しを捉えていたユダヤ教と、心の純粋性を強調し許しを徳として位置づけたキリスト教の伝統との間の差異とアナロジーがある。許しの生起を謝罪の有無に依存させることで、加害者が大きな力を得るというEnrightの見方も、あてはまらないケースがあるだろう。例えば、加害者が被害者からの許しを熱心に必要としているケースなどである。全てはケースバイケースなのである。Enrightは、無条件的な贈り物として許しを授けることで「おおよそ癒される(often healed)」と述べているが、しかし「同じく、おおよそ癒されない(Psrhaps often not, as well)」のであろう。

 傲慢さや不遜の精神からなされる許しは、真実の許しではない。愛の行為としての真実の許しは、ある人の道徳的再生のステップとなるようなものである。Enrightは、自己への許し(self-forgiveness)について、加害者が自己疎外の状況から世界における自分自身の快適さへと移るものであると述べている。しかし、すべての加害者がそうした仕方で生を得ることは道徳的に是認されるのであろうか。ブーバーが述べたように、実存的な罪悪感の放棄ではないのか。非日常的な犯罪者も、そうした扱いを受けるべきなのか。もしわれわれが悪の実在を信じ、全ての加害者を彼ら自身が悲惨な幼少時代や被害者であるとか精神病者であるとしないのであれば、われわれは彼らに自己嫌悪をもたらすべきではないのだろうか。こうした義務論的・報復的見方はカウンセリングとは相容れないものであるのか?クライアントの道徳的謙虚さ(moral humility)を促進するというのは、カウンセリングの目的足り得ないのか。正しい答えはないだろう。しかし許しをカウンセリングで扱うのであれば、これらの話は真実に哲学的文脈においてなされるべき話題である。

 

コメント

 前回に引き続いて哲学者Murphyによる許しのセラピーに対する批判的な見方。Enrightを代表として、許しをセラピーに導入しようとする心理学者のオプティミズムを痛烈に批判している。許しを文脈から切り離し、被害者個人の心の問題とすることの是非を問いている。臨床場面にゆるしを導入しようとするならば、ここでのMurphyの問いというものは実践的にも倫理的にも無視することはできないのではないでしょうか。

 

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