ゆるしの心理学

心理学における「許し(forgiveness)」に関する論文や著作のあらすじとコメントをのっけます。

論文:女性、虐待、許し(2)

Lamb, S. (2002). Woman, Abuse, and Forgiveness: A Special Case. In S. Lamb & J. G. Murphy(Ed.), Before Forgiving: Cautionary Views of Forgiveness in Psychotherapy. New York: Oxford University Press, pp.155-171.

 

おおまかな内容

 この論文で筆者は、許しについて反対するある議論を展開する。ある特定のケースやグループは、歴史的状況や文化における特殊性において、許しを促進されるべきではないということである。それが、女性である。

 許しは社会全体や他者のためよりも、その個人によって有益なセルフ・ヘルプの一形態であり、虐待されている女性にもその見方を提供するのである。しかしそうした女性に、反省していない加害者への許しを努力させ怒りを手放させようとすることは、女性的なステレオタイプの中で作用するものではないのか?被害者が加害者を許すには、自尊心だけでなく、自律性(autonomy)や主体性(agency)を必要とする。しかし「素晴らしくあれ(nice and good)」の文化的プレッシャーの中で、それは虐待の破壊的な作用と同じく、主体性を減じてしまうものではないのか。もしも許しが自律的な主体から発されたものでないのであれば、それは女性の心理的・道徳的利益に反するものとして働いてしまうものではないだろうか?

 女性は文化的価値の中で、怒りのような感情を持つことを問題とされてきた。とりわけ女性は、未熟な許しを行ったり、攻撃を見逃してしまう危険性が高い(Forward, 1989)。社会的実践の中で、若い女性は争いを解決し、傷を癒し、関係を修復することを望まれている。女性の大きな価値は「ケア」することである(Gilligan, 1982)。怒りや憤りを抑圧することで「良い少女」「良き女性」となることを女性は強いられている(Becker, 1997)。KrestanとBepro(1992)は、アルコール依存症の妻達が、生活を維持し、夫たちのケアをすること「イネーブラー」としてその症状を継続させてしまっていると指摘する。ニーチェ(1969)は『善悪の彼岸』の中で、許しが「憤りの昇華」となることを警告している。

 女性の許しは、傷つけた人だけではなく自身の怒りに直面化することを避ける手段となってはいないだろうか。このような許しは「偽の許し(pseudo-forgiveness)」と呼ばれるものである。また女性は、自らの子どもを守るために夫から受けるDVを許してしまっているかもしれない。Trainer(1981/1984)では「役割期待の許し」として、弱者の個人が強者の個人に、なんら攻撃者が変わることなく許してしまうことを観察している。そうした許しは,繰り返されることで怒りを増幅させてしまう。女性の怒りは、彼女が従属する相手への怒りである時、大きな問題となる(Tavis, 1982)。許しはこの問題を生じさせやすくするものではないか。

 簡単に許してしまうことが、自身への尊敬の欠如であることは、Murphyらによって指摘されることである。フェミニストたちの活動は、その権利を取り戻そうとするものでもある。Olio(1992)はまた、性的虐待の生存者達に許しを勧めるセラピストがいることに警告を発している。許しを怒りからの解放という目的で論じることは、女性を「メンタルヘルス」という言葉で懐柔しようとすることに似ている。性的な親和性は、女性に自尊心を売り渡すことで、加害者を許し憤りを消し去ることを促している。許しの定義の中に怒りや憤りが含まれていること自体が、女性にとって許しが不健康なものであることを示すのではないか。許しの促進者は、女性に怒りを経験させたとしても、その後にそれを乗り越えさせようとするのであれば、それは「良い」女性のステレオタイプに捉えられてしまっているのではないか。文化的規範の中で、女性という性役割が、より彼女達に許すことを義務を課しているのではないか?

 被害者の役割というもの、社会的に女性の特別な役割とされるものである。しかしそれ以上に、被害者を「生存者」として「高貴な獣(noble creatures)」としてしまっているのではないか。被害者は常に、それが純粋であるかそうでないかを問われる。純粋でなければ、すぐに非難されることになってしまうからである。性的加害者が許しを乞うとき、その行為は被害者を操る力を持つ。もし被害者が、その役割の「善と悪」の善の役割を果たそうとするのであれば、その被害者は許しを示し、同情を示さなくてはならない。それは被害者の役割である怒り、憤り、復讐心とは矛盾するものである。謝罪はときに、相手に「許しのプレッシャー」を与えるようなものとなるのである。

 歴史的に下位に置かれていた女性にとって、怒れることを拒まれることはその下位に置かれることを促進させるものであった。そのために、セルフ・ヘルプとしての許しは不道徳的なのである。レイプやDVはその女性個人だけでなく、女性全体への攻撃なのである。許しの行為は、単に対人関係的なものではなく、社会的な影響持ち、個人の感情的幸福を超えたものなのである。許しは社会全体を良くするものであると言われるが、怒りや憤りはそうではないだろうか?

 女性における許しの問題における、より重要な倫理的問題は、許しと責任の問題である。許しによって相手の謝罪や後悔が導かれるというのは、心理学的オプティミズムでしかないのではないか。もし変わることがなければ、虐待が続くだけである。「許して欲しい」という言葉は、単に「それ以上怒るのを止めて欲しい」ということではないのか。

 それでは、どうするべきなのか。まず、女性は許しの欠如において、文化的なサポートが必要である。彼女らは、許しが単なるオプションであることを教わる必要がある。次に、傷ついた個人は彼女の怒りが完全に受け入れられるものであり、捨て去る運命にあるべきものではないということを理解しなくてはならない。そして、被害者への共感が被害者を助けるものであるということである。それは文化が促進する、被害者に向ける恥や自己批判というものに反対するということである。

 またもし加害者に変わって欲しいのであれば、許しではなく、同情(compassion)で十分なのではないか。同情は自己反省と彼がしたことを怖れさせるのに十分なものである。同情は許しとは異なり、アンビバレンスがその鍵となるものである。傷ついた被害者は彼がしたことを覚えていながら、被害者からの愛を感じるのであれば、そうたことを起こさなければ結果が違ったことを意識させることになる。許しの促進者は、憤る人がその内的な不安定さから解放され、傷つけられた人が加害者への同情を失わないことを要請する。しかしその両方は、許し抜きでも達成される。前者に関しては、時間と空間といった物理的距離をとることや、「忘れる」ことで達成する。そして後者は、加害者の魂や性格というものを、後悔のあるなしに関わらずケアすることで達成される。アンビバレンスな世界を、憤りを諦めること無しに受け入れるのである。とりわけ女性の場合、怒りや憤りを保持しつつ、こうした種類の共感を示すことで、加害者の変化の可能性を切り開くことができるかもしれない。

 

コメント

前回が理論的な部分であるとしたら、今回は実践的な話。女性に「許すべき」という文化的なプレッシャーがあることは他でも指摘されている(例えばEnright&Fittzsgibbonz, 2000)。それを具体的かつ積極的に論じたもの。許しを被害者の内面の変化として捉えることの危険性が、鋭く指摘されている。許しを倫理的・道徳的に正しく用いるためには、被害者と加害者が置かれたコンテキストが非常に重要な役割を果たすのではないですかね。

 

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論文:女性、虐待、許し(1)

Lamb, S. (2002). Woman, Abuse, and Forgiveness: A Special Case. In S. Lamb & J. G. Murphy(Ed.), Before Forgiving: Cautionary Views of Forgiveness in Psychotherapy. New York: Oxford University Press, pp.155-171.

 

おおまかな内容

 許しの議論で見過ごされがちなことは、許しは明らかに「自助の戦略(self-help strategy)」を超えたものであるということである。それは恩赦でないにも関わらず、攻撃者への贈り物となるようなものである。しかし許しを心理療法で用いようとする人たちは異なった見方をしている。許しによる利益が個人のメンタルヘルスに大きな利益になると述べるにも関わらず、Enright(1998)やNorth(1998)と言った理論家たちは許しを「セルフ・ヘルプ」と呼ぶことを拒否している。特にEnrightは許しを「自己に対する贈り物以上のもの」と述べる。ほとんどの許しの促進者は、それが許す人の利益になると述べつつも、また許しは究極的には他者志向であることを強調している。また彼らの許しの定義において、それは許す人の他者志向への内的変化に関わるものであると言われている。しかし許しが関係性を修復するもの、また許された加害者の行動が次にはよりよいものになるとは断言できない。それはギフトとして、なんら拘束性がないものである。許しは徳であるからとか、社会のためであるから追及すべきものであるとかは言えるが、セルフヘルプの議論なしではそれが個人の利益になるとは言えないのである。

 許しがその個人のためであることを認めない人たちは、どこか不誠実である。研究者達は、許しを教えたりそれを学ぶことは、肉体的・精神的な健康を手に入れることであると述べている。それらは許しが個人の益になることを表すものである。そして研究者の多くの例は、許しができなかったり許しを必要とする人たちであり、何らかの心理的援助を必要としている人たちである。これらの筆者達が暗に前提とするのは、不安や神経質、抑うつや猜疑心、不信感でないやり方が心理的健康への道であるということであり、怒りはその人を弱らす感情であるということである。しかし、そうした人はそのような感情を選んだのではないのか?確かに、被害者に許せないことに対する責任を負わすことは問題である。そうではなく、本質的に被害者は彼女の感情に責任を持っているということである。「彼女は痛みを手放すことが出来ないので、彼女は許すことが出来ないです」は「しない」のではなく「出来ない」のである。しかし、許しの促進者は許しを選択として捉え、許せないことを「手放すことを拒否する」と述べるのである。許しの促進者たちは、虐待の帰結やトラウマというものをクライエントの許す能力の欠如と暗にみなしているのではないか。彼らはまた、被害者のリアクションを過度なものとして──「人生を支配している」とか「全ての存在を侵襲する」とかみなしてしまう。許しの促進者は、怒りや強い感情を怖れているように見える。「怒りからの解放」や他の全ての否定的感情は、彼らの定義の中心にあるものである。

 怒りによって生気を使い果たしてしまうことは確かに不幸であろう。しかし、許しが怒りから解放される唯一の方法なのであろうか。被害者は、怒りを抱え込む(embracing)ことでもそれから解放されるかもしれない。ある感情を深く経験することは、それに抵抗するよりも解放を導くものとされる(喪服追悼)。許しの心理療法家は、時に加害者とその行動を分けるようにいうが(罪を憎んで人を憎まず)、しかしなぜ加害者の、それもとりわけ反省しない加害者にそれを適用しようとするのか。もし人格をその行為と分けて考えることが出来るのであれば、被害者自身もその被害と自分自身を分けて考えることが出来るのではないか?人は、自らを過去を覚えていながらも、その自分とは今とは「違うもの」として見ることができるのである。ある人はそれを許しのある側面と呼ぶかもしれないが、それは許しの定義の中には含まれていないのである。

 共感はより許しを導くものであり、より世界が共感的になることはよりよい世界を招くことになるだろう。しかし、許し抜きの共感というのは存在しないのだろうか?無条件の許しは、加害者の変化を起こしうるかもしれない。しかしそれは、共感においてもそうである。しかし許しの促進者は、許し抜きの同情というものを、それは明らかに許しのオルタネティブとなるにも関わらず、拒否するのである。それは彼ら促進者が、許さないにもかかわらず共感するという、アンビバレンスに耐えれないからではないだろうか?しかしセラピーとはクライエントのアンビバレンスを保持できるように援助するものではないのか?損なわれた人は、憤りと同情の両方の感情を持つことができないのであろうか?

 

コメント

 前回に引き続き、Before Forgiving: Cautionary Views of Forgiveness in Psychotherapyから。フェミニストの心理学者で心理療法家のLambの許しのセラピーへの疑問。実は順番を多少前後させ、(2)に回した部分があります。まあこのブログは主におおまかな内容を紹介するものなので、本当に知りたい人はきちんと原典にあたることを強く推奨しますよ!

 

 

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論文:カウンセリングの中のゆるし

Murphy, J.G. (2002). Forgiveness in Counseling: A Philosophical Perspective. In S. Lamb & J. G. Murphy(Ed.), Before Forgiving: Cautionary Views of Forgiveness in Psychotherapy. New York: Oxford University Press, pp.41-53.

 

おおまかな内容

 現在、カウンセリングの世界では「哲学的カウンセリング」が一つのムーブメントとなっている。その例の一つが、Enrightによる許しのカウンセリングの中への導入である(※このマーフィーが批判するEnrightの論文のタイトルは"Counseling Within the Forgiveness Triad"である)。まず疑問となるのは、哲学的カウンセリング全体への問いである。哲学の価値は、信念や道徳の領域における「合理性(rationality)」というものそのものの中にある。しかし、カウンセリングにおいてそれは果たして目標となりうるのであろうか。哲学的なアプローチを用いることと、哲学的なカウンセリングを行うということは違う。マルティン・ブーバーは(おそらくナチスがセラピー的な助けを模索していたということを批判する文脈で)セラピストは彼が「真実の」とか「実存的な」と呼ぶ罪悪感をクライアントが扱うことを邪魔してはならないと論じているのである。

 Enrightは「許しの三角形」として、他者を許すこと・他者からの許しを受け入れること・許し自体の三つを挙げている。そして「それぞれの面において、哲学的合理性を示し、それ故にカウンセリングでも正しく、合理的かつ道徳的に許しを正しいものとしている」と述べる。しかし、エンライトは哲学的合理性がなぜカウンセリングで受け入れられるかについて説明していないのである。しかしおそらく、哲学的合理性は、セラピーにおける目標──例えば不安を減少させること──とは緊張をはらむものであろう。

 Enrightは、哲学者達が傷つきが生む憤りが自己尊敬のサインであり、それゆえに準備の出来ていない許しが、徳というよりも奴隷制の悪を示すものであろうことに気づいている。加害への憤りは、加害が示す「私はあなたを私自身の目的のために用いる」というメッセージに賛成しないということであり、そうした仕方で自己尊敬を表すものである。これは自己尊敬がある人物は決して許さないということではなく、しかしそのような人物の許しは加害者の変化(典型的には謝罪という、加害のメッセージを撤回するもの)に基づいてなされるということなのである。一方でEnrightは、許しの生起を謝罪の有無に準拠してしまうことは、大きな力を加害者に与えることになり、二度目の加害を生じさせてしまうものであり、それゆえ許しは自己尊敬を示すものであると述べているのである。

 私(Murphy)とEnright、どちらが正しいのか?その答えは、クライエントやコンテキストに高く依存するであろう。重要なのは、「いつも許しがトライされる」や「決して許しはトライされない」など、いかなる一般的な視点も正当化されないということである。私(Murphy)の主張は、憤りを保持すべきであるという議論ではなく、それが常に悪いものではなく、時に自己尊敬のために正当化すべきものであるということである。

 Enrightは被害者化されたクライエントが彼らを傷つけたものを許すということを勇気づけることに対して、だいたいは良い結果を得ているようである。しかしそこには幾つかの疑問は残る。まず、それは既に許しにコミットメントしているものしか結果を得られていないのではないかということである。次に、本当にクライエントは自己評価を高めることは出来ているのか、それは単にクライエントが心地よく(feels better)なっているだけではないかということである。そして、それに関わることだが、それは単に「無駄な抵抗をしてバカをみる」ということを教えているだけではないのか?性急な愛や許しというものは、特定の神学的視点からも肯定されるものであるが、しかし加害者が被害者に対して与えることは、カウンセラーにとって常によいアドバイスではない。マルクスが「宗教はアヘン」という言葉で、宗教が抑圧者への服従を生んでしまうことを批判したが、同じことが許しにも言えるおそれがあるのではないだろうか。未熟な許しの戦略が招く結果は、さらなる被害者化である。そしてそれは、加害者にとっても悪影響である。憤りに直面する機会を逸し、それがさらなる道徳的な腐敗を生んでしまうのであれば、それは謝罪の機会を喪失させ、被害者の再生の機会を奪うものとなってしまうだろう。「罪を憎んで人を憎まず」というものは困難であるのであるが、その人と罪の同一化を謝罪や後悔は打ち破る機会となるようなものである。もちろん、許しが真実の後悔と謝罪を生む物語もあるし、それは否定されるものではない。しかし、懐疑の余地はそこに残るのである。

 Enrightのゆるしの理解の背景として、キリスト教的な考えがあるように思われる。Enrightの信念には、1)許しとは心の内的な変化であり、2)すべてのそれらの外的な行動は社会的和解のためにある、ということの間に鋭い対立がある。これは許しの前提となる状況を重視し社会的コンテキストにおいて契約社会に復帰するために許しを捉えていたユダヤ教と、心の純粋性を強調し許しを徳として位置づけたキリスト教の伝統との間の差異とアナロジーがある。許しの生起を謝罪の有無に依存させることで、加害者が大きな力を得るというEnrightの見方も、あてはまらないケースがあるだろう。例えば、加害者が被害者からの許しを熱心に必要としているケースなどである。全てはケースバイケースなのである。Enrightは、無条件的な贈り物として許しを授けることで「おおよそ癒される(often healed)」と述べているが、しかし「同じく、おおよそ癒されない(Psrhaps often not, as well)」のであろう。

 傲慢さや不遜の精神からなされる許しは、真実の許しではない。愛の行為としての真実の許しは、ある人の道徳的再生のステップとなるようなものである。Enrightは、自己への許し(self-forgiveness)について、加害者が自己疎外の状況から世界における自分自身の快適さへと移るものであると述べている。しかし、すべての加害者がそうした仕方で生を得ることは道徳的に是認されるのであろうか。ブーバーが述べたように、実存的な罪悪感の放棄ではないのか。非日常的な犯罪者も、そうした扱いを受けるべきなのか。もしわれわれが悪の実在を信じ、全ての加害者を彼ら自身が悲惨な幼少時代や被害者であるとか精神病者であるとしないのであれば、われわれは彼らに自己嫌悪をもたらすべきではないのだろうか。こうした義務論的・報復的見方はカウンセリングとは相容れないものであるのか?クライアントの道徳的謙虚さ(moral humility)を促進するというのは、カウンセリングの目的足り得ないのか。正しい答えはないだろう。しかし許しをカウンセリングで扱うのであれば、これらの話は真実に哲学的文脈においてなされるべき話題である。

 

コメント

 前回に引き続いて哲学者Murphyによる許しのセラピーに対する批判的な見方。Enrightを代表として、許しをセラピーに導入しようとする心理学者のオプティミズムを痛烈に批判している。許しを文脈から切り離し、被害者個人の心の問題とすることの是非を問いている。臨床場面にゆるしを導入しようとするならば、ここでのMurphyの問いというものは実践的にも倫理的にも無視することはできないのではないでしょうか。

 

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論文:許し、自尊心、そして憤りの価値

Murphy, J.G. (2005). Forgiveness, Self-Respect, and the Value of Resentment. In E. L. Worthington, Jr(Ed.), Handbook of Forgiveness. London: Routledge, pp.33-40.

 

おおまかな内容

 筆者であるマーフィは、哲学的立場から無条件にそれを良いものであるとした「許しのムーヴメント」に対して警告を発する。とりわけ性急な許しというものは、自己への尊敬、道徳的命令への尊敬、加害者への尊敬、そして許しそのものへの尊敬さえ危機にさらすものである。それは「安価な恵み」となってしまう危機を持つ。

 筆者の哲学的背景は、ジョセフ・バトラーにある。バトラーは、許しを一義的に内的な事柄、心の変化とする。それは、それ自体で感情や情念というよりも、加害された時に自然にわき上がる、復讐の情念の制限や減少としてバトラーは考えていた。その復讐の情念を、バトラーは「憤り(resentment)」と呼んでいる。バトラーは憤りやその他の復讐の情念を、それが神によって人間に授けられた感情であるからとし、正当化することを試みている。その情念は、重要な価値を守るのである。その価値とは自己への尊敬、自己の防衛、そして道徳的命令への尊敬である。そのため憤りの欠如は奴隷的人格を指し示す。それは自身への尊敬を欠き、自由で平等な道徳的存在に付属する権利や状態への尊敬を欠いている。道徳的なコミットメントは、知性におけるコミットメントだけでなく、それは感情との同盟を要請するのである。道徳的な人格は、間違ったことに関する感情と情念に駆り立てるものである。

 復讐の特性は加害者に対してそれ以上傷つけることをやめるように働きかける。セラピストが導く性急な許しが、そこにあるリスクを残したまま、性急な和解へと急いてしまうかもしれない。また憤りは自己への尊敬の側にたつだけではなく、道徳的命令そのもののそばにも立つ。我々は、知的にも感情的にも、何が他者から人間が扱われる上で許容できないかについての明確な理解を持つ義務がある。そしてそれはまた、私たちの加害が何の憤りも起こさないことに関して拒否をしなくてはならない。それは、私が取るに足らない存在であるということを示すものであるからである。

 これらのことは、なぜ謝罪が正当な許しの扉を開くかということを示す。それは加害が示す、人を道具として用いても構わないというメッセージを、誠実な謝罪が覆すからである。多くのクリスチャンは、許しは無条件なものであると考えているが、しかしルカ17章3節はそれに反するものである。憤りの中、復讐の情念の中には、肯定的な要素が存在している。復讐劇は、映画や文学において人々を魅了し続けている。復讐を望む人は対等になること、彼ら自身も加害者と同じような価値と権利を持っていることを主張しようとしている。

 復讐心を抱き続けることは彼ら自身を苦しめることになるというが、二つの点からそこに対して反論が出来る。 一つは、復讐心がその人を害する時はそれが抑圧されている場合のみであるということである。簡単に言って、その恨みが溜まるのを防ぐ方法は二つである。許すかイーブンにするかである。二つ目は、感情それ自体の合理性と、感情が全体的な心理的システムにおいて果たしている役割の合理性を区別しなくてはならないということである。つまりは復讐心が全人格を塗りつぶしてしまうまでは、その感情自体はまだ望ましいものではないとは言えないのではないか。復讐心に支配されてしまうことはまれであり、多くの人は正しい状況までそれを表出する正しい場面までそれを浮かべておくことができる。復讐心は、正気で道徳的な人々の中にも存在しうるものである。

 最後に、筆者はアウシュビッツの中でのある祈りを紹介している。「神の許しは、このような場所を作ったことを許さないでしょう。神の恩寵は、ここで殺されたユダヤ人の子どもを殺した者たちに恩寵を与えることはないでしょう」

 

コメント

 哲学者マーフィーの、Handbook of Forgivenessにおける許しのムーブメントへの警告。許しという現象はポジティブな側面ばかりではないということ。復讐への情念の中にも、自分を守るという大切な価値が存在している。そこに耳を澄ませていかなくてはならない。ジョセフ・バトラーは神学者なんですけど、キリスト教の伝統からuncondititonalな許しだけが提供されているわけではないってのは重要なことだと思います。「安価な恵み(cheap grace)」ってのも、ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉ですしね。

 

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論文:許しのアートと科学に関する最初の疑問

Worthington. E.L., Jr. (2005). Initial Questions About the Art and Science of Forgiving. In E. L. Worthington, Jr.(Ed.), Handbook of Forgiveness. London: Routledge, pp.1-14.

 

大まかな内容 

 許しはアートであり科学である。しかし許しの科学は近年のものである。1970年代には目につくような許しの科学的な研究の論文は一切なく、それは宗教の領域のものであった。許しの科学的研究は 980年代半ばに始まり、それは爆発的に加速していくことになる。もっとも、最初の研究所は神学者のものであったが。続いては発達心理学者である、Robert Enrightが続くことになる。1980年代中頃には、多くの人は許しは宗教と結びついたものとして考えられたが、しかし現在では公の注目を浴びるものとなっている。

 科学としての許しには、八つの疑問が付随している。

 まず一つ目の問いは、「何が許しであるか」ということである。最初の許しの代表的な研究者としてあげられるのが、Enright(Enright & Fitzgibbons, 2000)である。彼は、許しとは否定的な考え、行動、そして感情が、より肯定的な考え、行動、感情に置き換わるものであるとした。また彼は、許しをプロセスとして理解し、許しのプロセスモデルを、介入のモデルとして提示した。それは科学的なエビデンスを示すものではなかったが、しかしヒューリスティックな仮説を提示することになった。次にあげられるのは、Micheal McCulloughとその仲間たちであり、許しをモチベーションの再方向付けとして提示することになった。彼ら((McCullough, Fincham, & Tsang, 2003)は、間違いを犯した人への、和解的な動機付けの上昇を伴う否定的な動機付けの低下、として許しを定義付けた。その協力者の一人であるFichman(2005)は、否定的動機付けの低下と肯定的な動機付けの上昇を許しの重要な要素としている。Worthington (2003)は、許しを二つのタイプに分ける。それが感情的な許しとしての、否定的な感情が肯定的な感情に入れ替わるというものと、決断的な許しとしての、加害者への行動の志向性の変化というものである。他にも認知的な側面や、対人関係でのコンテキストで生じるものとして許しを捉えようとの試みが、心理学者たちからなされている。こうした「ショットガン」的なアプローチに対して、McCulloughら(McCullough, Pargament, and Thoresen, 2000)は、それらに共通する許しの核となる要素として「加害後の経験における向社会的変化」を取り出す「ライフル」的なアプローチを試みている。

 二つ目の問いは、どのような方法で許しを図ることが適切かということである。

 三つ目の問いは、許しはいかにして宗教と関わっているかということである。

 四つ目の問いは、そのプロセスに関わる人に許しはどのような影響を与えるかというものである。許しは、内的なもの、二人の対人関係、社会的・政治的コンテキストに含まれる対人関係の高度に複雑に絡み合ったものである。

 五つ目は、許しの利益とは何かというものである。許しの利益は、肉体的・精神的・対人関係的・スピリチュアル的な健康をもたらす。許さないことはストレスフルであり、加害者への敵対的な感情を生み出す。それはタイプAの敵意と関係があるとされる。またある調査においては、老人たちにおいて許しは低い健康上の問題と関係するとされる。また許しは心理的な健康と幸福に関係あるとされ、少なくとも許さない人々においては怒りと抑うつが認められる。また、許しは少なくとも表面的には対人関係的な健康と定義上で関係する。スピリチュアルな面でもそうであろう。

 六つ目は、許しのコスト・限界・医学的影響についてである。許しはコストを伴い、何かを諦めるというものである。

 七つ目は、許しを促進する介入についての疑問である。

 八つ目は、許しの将来的な研究の展望についてである。

 

コメント

  Worthingtonが編集者となった大著Handbook of Forgivenessの最初の章。Worthingtonからみた許し研究の概略と、心理学における許しの代表的な定義としてEnright、McCullogh、そして自分のをあげている。自分のだからかな。でもこの三者の許しの定義の違いというものは、結構わかりやすくまとまっているのではないのでしょうか

 

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論文:許しの心理学(2)

McCullough, M. E., Pargament K. I., & Thoresen, C. E., (2000). The Psychology of Forgiveness History Conceptual Issues, and Overview. In M. E. McCullough, K. I. Pargament, & C. E. Thoresen(Ed.), Forgiveness: Theory, Research, and Practice. New York: The Guilford Press, pp.1-14.

 

大まかな内容

 明らかに許しの科学的研究は拡がりつつある。しかしながら、個々の研究者の許しの定義はひどく多様なものとなっている。現時点(2000年)で、許しのコンセンサスある定義は存在していないのである。しかし、多くの理論家や研究者たちは、EnrightとCoyle(1998)が、許しは「赦免すること(pardoning)」「免責すること(excusing)」「忘却すること(forgetting)」「否認すること(denying)」とは異なる、ということに同意している。また、許しは「和解(reconcilation)」とも異なるということもまた、同意されている。

 だが、何が許しでないかの同意は取れていても、何が許しであるかの同意は取れていない。たとえば、Enrightらのグループ、McCulloughのグループ、HargraveとSells(1997)らの間の許しの定義を見ると、かなり異なったものであることがわかる。その他にも多くの人によって許しは定義されているが、それらは似ている場所がありつつも、本質的に異なる仕方で定義されている。

 しかし、存在するすべての定義は、一つの中核的な特徴の上に成り立っているように見える。それは、人が許すとき、彼らを傷つけた人に対する反応(言い換えるのであれば、何を考え、何を感じ、何をしたいか、もしくは実際に何をしたのかということ)は、よりポジティブになり、よりネガティブなものが少なくなるということである。そのため、われわれは許しを「特定の対人間のコンテキストに位置付けられる、知覚された加害者への、個人内の向社会的な変化(intraindividual, prosocial change toward a perceived transgressor that is situated within a specific interpersonal context)」と定義することを提案するのである。

 加害された人が許すとき、その許す人は変化する。この意味で、許しは心理的な構成概念である。しかしながら、許しは個人的なものであると同時に対人関係的なものであるという、二重の性格を持つものである。許しは対人間で生じた侵害への反応であり、そして許す人は誰かとの関係において許す必要がある。そのため、それは心理的な現象でありつつも、許しは同時に対人関係的なものなのである。個人内での許しも、その社会的な側面も共に「現実」である。おそらく、最も包括的な考えは、許しは心理社会的な構成概念(a psychosocial construct)であるということである。

 

コメント

 前回の続きで、McCulloughが包括的な許しの定義を提案している場所。許しが心理社会的な構成概念であるということを明示しているという点で、重要な部分であると思います。McCullough自身の許しの見方は、動機付けの変容ということを強調しているのですが、多くの研究の出発点となることができるような定義として「個人内の向社会的な変化」というのを持ってきてます(実はこの箇所の訳は間違っているのかもしれないので、訂正してくれる人をお待ちしております)。この後もこの論文は続くのですが、その後の本の内容であったりするので省略いたします。

 

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論文:許しの心理学(1)

McCullough, M. E., Pargament K. I., & Thoresen, C. E., (2000). The Psychology of Forgiveness History Conceptual Issues, and Overview. In M. E. McCullough, K. I. Pargament, & C. E. Thoresen(Ed.), Forgiveness: Theory, Research, and Practice. New York: The Guilford Press, pp.1-14.

 

大まかな内容

 フロイトの慧眼はほぼすべての心理学的概念に光を照らしたが、許しについてはほとんど何も触れていない。同じことが、ジェームズ、ホール、ソーンダイク、ターマン、オルポートいった人たちに言える。また、ユング、ホーナイ、アドラーフランクルといったメンタル・ヘルスの領域におけるリーダーたちも同じである。これは単に彼らがもっと他の重要な概念に注目していたからであるかもしれないが、許しと宗教の間の伝統的な関係の強さから社会科学はそれを扱うことを嫌厭したのかもしれないし、許しに関する信頼のあるデータを集めることが困難であったかもしれないし、また20世紀がおそらく人類史上で「最も許さない世紀(the most unforgiveing century)」であったからかもしれない。

 心理学・社会学における許しの研究の歴史は、大きく二つに分けることができる、最初の世代は1932年から1980年のおよそ50年間であり、ここでは多くの理論的な研究や控えめな実証的研究によって許しの様々な側面に光があてられてきた。1930年代から、ヨーロッパやアメリカで人間の現象としての許しについての議論が重ねられてきた。その中の一人がピアジュ(1932)である。また、初期から牧会カウンセラーや宗教に関心のあるメンタルヘルスケア従事者は、許しが健康に利するように働くと明言していた。そのなかでも、Emerson(1964)の研究はおそらく最初に許しとメンタルヘルスやウェル・ビーイングとの関係を科学的に明らかにしようとしたものである。またHeider(1958)の『対人関係の心理学(The Psychology of Interpersonal Forgiveness)』で許しについて多く言及されており、1970年代には人間の価値の中において許しはその一つとして位置づけられている。また、1980年にはアクセルロッド(1980)が囚人のジレンマ実験の中で許しが果たす役割の重要性について報告している。このように1932年から1980年にかけて、多くの心理学の領域で許しについては言及されてきたものの、それは断片的なものにとどまるものであった。

 次の世代は1980年から現在までである。この20年間には、それまでと比べより集中的で真剣な検討が許しの概念について行われることとなる。それは、発達心理学、カウンセリングと臨床心理学、そして社会心理学の領域で主に研究されてきた。Enright, Santos, and Al-Mabuk(1989)は、許しの理論的発達を明確にコールバーグの道徳性発達の理論に結びつけて論じており、Enrightを中心として許しと道徳的発達の関係について研究が進められることとなる。そして1980年代以降の許し研究が、それまでとは異なるのは、許しとメンタルヘルスの関係のポテンシャルについての強い関心というものが挙げられる。重要な概念的研究や多くのジャーナルが臨床家たちによって書かれることになり、1990年代中ごろからは、許しを促進するような方略を用いたカウンセリングやサイコセラピーの実証的研究が科学的なジャーナルにおいて行われることとなった。また1980〜90年代において、許しの社会心理学的原理についても研究が進められることになる。そこでは人々の攻撃者を許そうという意思は、責任、意図性、動機(Darby & Schlenker, 1982)や加害の深刻さ(Boon & Sulsky, 1997)といった、社会-認知的な特性によって説明できるとされ、また新たな理論が「人格社会心理学(personality and social psychology)」の分野で提案されることとなる

 そして最も重要な出来事は、John Templeton Foundationが許しの科学的研究に多額の資金を提供をしたことである。これにより多くの科学者が資金を手にすることができ、多くのプロジェクトが開始されることとなったのである。

 

コメント

 前回と同じくMcCulloughによる許しの概論から。著作は2000年に出版されたものであり、ここは許し研究の概観が書かれた部分。初期の偉大なる心理学者たちから、不自然なほどに許しの概念は無視されており、その後も本格的に議論されることはなく、集中的な研究が始まったのは1980年代からであるという話。しかしその火付け役はなんであったのかというのはこの記述からだけだと疑問の残るところである。ポジティブ心理学に本格的に注目が集まる前の話ですし。が、のちにWorthingtonがそのあたりのヒントをくれるのである。

 

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